小児科外来病棟待合インスタレーション「タングラムスケープ」

小児科外来病棟待合インスタレーション「タングラムスケープ」

2007/11/01firstview風景をつくる

芸術が果たせる役割というのは、単に美しいものを提供するだけではない。

人と人をつないだり、皆が気づかなかったことに光をあてるという役割もある。

社会の現場でそんなことを思考するという機会は、普通はなかなか訪れない。

ひょんなことからぼくの人生には病院で芸術を考えるというテーマが持ち込まれたのだ。

大阪市立大学医学研究科の山口悦子先生から病院で作品を作って欲しいというお話をいただいた2007年。

それが最初のきっかけだった。

出会いは「船場アートカフェ」という集まりに参画したことだった。

そこに同じくメンバーとして参加していた山口先生から企画の一環としてお声がけいただいたのだ。

船場アートカフェは実際のカフェではなく、大阪市立大学の都市研究プラザが主宰するプロジェクトだ。音楽学の中川真教授を中心に社会の現場における芸術の可能性を探る。

そんなプロジェクトがいくつか行われていた。

同じく大阪市立大学の医学部付属病院でも、その枠組みの中で数年間プロジェクトが行われた。

山口先生や当時の施設課の平井課長を中心に、プロのアーティストと職員との共同プロジェクト。

私はそんなプロジェクトにアーティストとして関わることになったのだ。

病院は、社会的な属性や立場の違う不特定多数の人々が訪れる公共空間だ。

その中でも最も条件が“厳しい”場所の一つではないかと私は思っている。

なぜならば病院は生死に直結する問題を扱う場所だからだ。

他の公共空間と比較して行動や表現の幅が非常に限定されている。

病院は、人の命を救い、病を治療するという強い目的を持った場所だ。

だから病院の中では病気を治療するという目的以外の行為は極力限定される。

患者の行動にも制限が加えられる。

その上、スタッフの行動やコミュニケーションは治療と回復という目的に向かって全てが紡がれている。医師、看護士、ナースエイド、職員、患者の全員がそれぞれの役割を果たしながら病気を治療する。

それが院内の全てだと言ってもいいだろう。

医師と患者、看護士と患者、あるいは医師と看護士や職員との間でのコミュニケーション。

それも治療という目的のために行われる。

強い目的を持つ場所では、その場所にいる全員のまなざしはその目的に照準を合わせている。

だから逆にその目的以外のことにはまなざしが届かない。

だからそこで何かが見落とされている可能性もある。

芸術は病気を治療するようなものではない。

そして病院の日常は切羽詰まっていて芸術などとは言っていられないような状況にあふれている。

人の生死に関わるような局面で、芸術ができることは何もないのかもしれない。

そんな現場で、どのような問いと答えが芸術を通じて立てられるのだろうか。

病院という場所の意味、医療という行為、そこでの人々のコミュニケーション。

働く人、治療される人もみんな心を持った人間であるという共通性がある。

だからそこに芸術が関わる意味はどこかにあるはずだ。

それは同時に芸術が社会に果たせる役割を考えることと重なっている。

病院はまぎれもなく社会の一部であり、社会の縮図なのだ。

山口先生に一番初めにお声がけいただいた場所は、小児科外来病棟だった。
当時ちょうど改装中だった小児科外来の待合の空間に仮設の壁ができている状況だった。
そこで何かをして欲しいというような依頼が私に寄せられた。
病院にこれまで縁のなかった私は、まずは待合に座って色々と観察することから始めることにした。
大学病院の外来というのは本当にたくさんの人がやって来る。
特に小児科は0歳から20歳まで幅広い子供が来るのだが、いつも混雑している。
時には診察が始まるまで2時間近く待たされることもあるようだった。
5分程度の診察のために2時間そこで待たなければならないのは、本当に辛い体験だろう。

病院は具合が悪いので来るところなので、いつもよりも待つ時間が長く感じられる。
小さな子供は待ちきれない。
持ってきた絵本も読んでしまって、時間を持て余してぐずりだす。
私にも子供の気持ちはよく理解できた。
病院に来てもほとんどがじっと待っている時間だと、次も来たいとは思わないだろう。
大人だって具合の悪い時に2時間も待つのは嫌なのだ。
子供もぐずるが、お母さんだって大変だ。
子供を待たせるために病院に来ているわけではないのだ。
でも医師の数は限られているし、やってくる人はたくさんいるので順番を待たなければ仕方ない。
診察の待合にずっと座って観察していると、こんな状況が浮かび上がってきた。
病院に限らず、多くの人が集まる場所では待つということがほとんど当たり前になっている。
役所や空港、駅や商業施設なども用事はそれほど長くなくても、待っている時間が長い。

一方で現代人は待てなくなってしまっている。
電車のプラットホームを見ていると、ほとんどの人がスマートフォンを触っている。
何もせずに待っている人というのは本当に少ないのだ。
人は退屈には耐えられない生き物で、とにかく何かの刺激を欲しがる。
ぼくたちは何もせずに単に待つということが出来なくなってしまっているのかもしれない。

しかし考えようによってはこの待っている時間というのはチャンスだ。
時間があるからこそ空想を働かせるチャンスがやってくる。
逆にその待っている時間が創造的であるためにはどうすればいいだろうか。
そう考えることにした。

幸いにそこには工事が終われば撤去されるような好きにしていい仮設の壁がある。
すぐに思いつくのは、その壁を大きなキャンバスに見立てて絵を描いていくことだ。
しかしそれはぼくが書くのではなく、子供達が描いていくという方がいい。
診察に来るたびに絵を増やしていけばいいのだ。
他の子供達の絵も見ることができるだろう。

この仮設の壁に空と大地と海を背景にして、子供達が自由に絵を描いていく。
そんなことができないかということを私はひとまず考えた。
早速、山口先生と船場アートカフェのディレクターの高岡さんに話をしてみる。
二人だけではなく、現場の看護士さんや現場のボランティアスタッフの方々も交えて話しをしてみた。
私が出したアイデアを巡って色んな意見が飛び交わされた。

クレヨンや絵の具を使うと診察の前に手を洗わなければならないという意見。
あまり絵の上手ではないような子は、自ら何かを表現することを躊躇するかもしれないという意見。
病院で作品など作ったことのない私にとっては、そういう意見は発見の連続だった。

市大病院には院内の芸術活動を補助してくれるボランティアスタッフがいる。
彼女たちのおかげで院内でのコミュニケーションの負担は随分と軽減するのだ。
こうした様々な人がいる現場では、制作を支えてくれる多くの方々がクリエイションに参加する。
それは作家の存在以上に重要だ。
彼女たちとの共有がなければ、それは単なる作家の美意識や価値観の押し付けになってしまう。

病院に限らず、美術館のような表現の場ではない社会の現場で何かを進めていく時は注意が必要だ。
自分個人のやりたいことだけを押し付けると制作は進んではいかない。
院内には医師や看護士が通常の業務をしている。
そのプログラムの中にうまく寄り添っていかないといけないのだ。
だからぼく自身が病院のことをもっと知る必要があるのだと感じた。

こうやって色んな条件が出てくるということは、自分の創造性を引き上げる一つのトリガーになる。
今までの想定にない課題が出るとことは、それを乗り越えるために新しい表現を探さなくてはならない。
それは自分の美意識だけで何かを作っていては生まれてこないような表現だ。
ぼくは病院のことは全くといっていいほど知らない。
だから院内のことをよく知っている人が立ててくれる問いやアドバイスは、すべて自分にとっては新鮮だ。それに他の人の問いを自分の問いに変えていくことにはとても可能性がある。特に良質の問いは、自分の思考が試されることではあるが、逆にその答えを探すことで能力が開かれることも多い。
手を洗わずにすむこと、そして子供達が自分のお絵かきの能力を気にしないこと。
複雑ではなく、簡単に関わることができること。
何回きても変化があって飽きがこないこと。
そんな様々な条件を考えながら 表現形態を選択していった。

最終的にぼくが提案したのは、タングラムを使って、子供達が壁に形を表現するということだった。
タングラムというのは中国で生まれた図形パズルだ。
6つの三角形と1つの四角形のピースからできている。
暇つぶしのために温泉宿などに置いてあることもある。
この図形パズルは想像力次第では何百も様々な形を作ることができる。
これを使って様々な登場人物を配置していく。
そのことで、一緒に巨大な風景「タングラムランドスケープ」を作っていくことを考えた。

仮設の壁面にはカッティングシートで空と山と海の背景を用意した。
それと同時にタングラムの形にカットした色とりどりのシールをたくさん用意した。
子供達は好きに選んで貼ることができるように壁に取り付けた。
また子供達がタングラムでつくる形の参考になるようにと、図形のサンプルも100種類ぐらい用意する。そして使い方を解説したボードを掲げた。

準備はすべて整った。
あとは子供達の創造性に任せるだけになった。
楽しみにしていたのはぼくだけではない。
一緒に考えた看護士やボランティアスタッフの皆さんもどうなるか楽しみにしていた。

結果はぼくたちが予想したものでは全くなかった。
それよりも、もっと素晴らしいことになったのだ。
当初ぼくは子供たちが用意した形のサンプルを真似して、その通りに貼ってくれると想像していた。
しかしその想像は楽しい形で裏切られることになる。

期間中に訪れて壁を見ると、ぼくが想像もしていなかったような登場人物が山ほど現れていた。
サンプルには示していないような巨大イカのようの生物。
凶悪な顔をした太陽。
動物なのか植物なのかわからないようなものが空を飛ぶ。
海の中には家のような工場のようなものが建っている。

しかしそういう形があるものはまだマシだ。
そこにあるもののほとんどは、もはや7つの図形パズルというルールは無視されていた。
それはいくつもの色が組み合わされた三角形の生物たちの大爆発だった。
その様子は、地球上の生き物が一気に多様になったカンブリア紀の海のような風景に似ていた。

ぼくは当初に自分が持っていた貧困な想像力を恥ずかしく思った。
子供達のもっているエネルギーの方が、ぼくの想像力をはるかに上回っているのだ。
もはや当初の登場人物が出てくるということは問題ではない。
子供たちはシールを貼るのが楽しくて仕方が無いようで、シールの上にシールを重ねられていく。
それが彼らにとってリアルな表現だった。

来るたびに書き換えられている絵本のような状況。
それは、最初に想定していたものよりもよほど面白い表現を生んだ。
子供達にとっては、診察に行くよりも、待っている時間にシールを貼りに行くことが目的になった。
次回来てみると前に自分が貼ったものなどとっくに埋もれてしまって見分けがつかない。
そうなると今度はその上からまたシールが貼り返される。
その攻防戦が展示期間中にずっと繰り広げられる。
何かとんでもない戦いがそこで起こっているようだった。

この2ヶ月間の展示の間にこの作品の状態は変わり続ける。
こういう変わり続ける作品制作の手法を美術ではワークインプログレス(進行中の作品)と呼ぶ。
通常作品と呼ぶ場合には、作家が完成した作品を提示する。
しかしワークインプログレスでは、完成した作品ではない。
その作品が生まれていくプロセスそのものが作品となるのだ。

ぼくは多少なりともワークインプログレスを意識して、この表現を取ることにしていた。
しかし結果としてそこに現れたのは、当初の意図などとっくに超えたエネルギーの痕跡だった。
自分が意図したことなどつまらないことだ。
それよりもその場にいる人々のリアルなエネルギーがぶつけられること。
それこそが、本当の芸術なのではないかと思う。

最終的にこの壁に刻まれた「タングラムランドスケープ」は、2ヶ月の展示を終えて撤去された。
待合室の工事が完了し、本設の壁ができたからだ。
子供たちがエネルギーをぶつけた痕跡は、その思い出とともに消え去っていった。
ぼくはそれも含めて、この一時的に現れては消えていく風景が面白いと思っていた。
しかしその後のエピソードがぼくにとっては、とても印象深い経験となった。

タングラムスケープ

次にこの小児科外来へ再び訪れた時に、タングラムのコーナーが本設の壁に新たに設けられていたのだ。
今度は可変性を持たせる形でマグネットシートのタングラムになっていた。
これは子供達が待合にいる間に、いつでもできるようにと看護師さんたちが考えて作ったと聞いた。
ぼくの取り組んでいる「まなざしのデザイン」はモノの見方を変えることだ。
このタングラムランドスケープでは、子供たちの病院の見方を変えるつもりでしていた。
しかしそれは同時にその背後にいる看護師さんたちの見方にも影響を与えていたのだ。

ここで重要なのは、作家の表現行為や著作であるということが大切なのではないということだ。
確かにこの作品はぼくが年末年始の時間を使って一生懸命頭をひねったものだ。
著作権はぼくにあり、他の人がそれをパクる権利はないと主張することもできるかもしれない。
しかしぼくが考えているまなざしのデザインは、誰かのまなざしを自由にすることだ。
ぼくが何かを表現したことによって、誰かのまなざしが自由になる。
そうであれば、そちらの方がよほど意味があることだ。
作家の創造性は見た人や関わった人の創造性を自由にするためにある。

それはいわゆる著作権に守られた芸術と呼べるものではないのかもしれない。
しかし自分の創造性と子供たちの創造性があわさり、現場の看護師さんたちの創造性が開かれた。
そのことの方が大きな意味があるのではないだろうか。
それは「芸術」と呼ばれるものが現場に受け継がれることで「文化」に変わろうとする瞬間なのだ。

文化というのは芸術よりもさらに大きな枠組みだ。
芸術イコール文化ではなく、芸術は文化に含まれている。
文化度が高いということは、そこにいる人々の創造性が高いということである。
そのために芸術が貢献できることはあるはずだ。

だから、作品は撤去されてなくなったが、ちゃんとその創造性は受け継がれている。
そのことにこそ本当の意味があるように思えるのだ。

Recent Posts

風景をかんがえる
風景になる