大阪市立大学附属病院空中庭園インスタレーション「風のおみく詩」

大阪市立大学附属病院空中庭園インスタレーション「風のおみく詩」

2017/11/01風景をつくる

 

病院でアートの取り組みを展開するのに、小児科病棟というのはある意味ではわかりやすい場所だ。

なぜならば子供達を喜ばせるという目的は誰もが納得する理由があるからだ。

子供のために病院の中に楽しいアートを持ち込むというのは正当化されやすい。

しかし様々な立場や属性をもった入院患者に向けてということになると、急にハードルが上がる。

 

18階立ての市大病院では入院病棟は6階から上にある。

6階には屋外庭園が設けられていて街の様子や植え込みの緑を眺めたりすることができる。

院内の中で外に出ることができる唯一の場所だ。

2009年、その場所で山口先生はぼくに何かをしてほしいと考えていた。ぼくのインスタレーションにあわせて「もぐら」という院内の園芸ボランティアチームによる花の植え込みや、詩人の上田假奈代さんによる詩のワークショップなどの企画も予定されていた。看護師やボランティアコーディネーターの方々とのディスカッションで出てきたのは、この場所で何か自然を感じられるようなインスタレーションということだった。

 

ぼくには入院した記憶がほとんどない。

母に聞くと物心つくまでの小さい頃は入退院を繰り返していたらしい。

唯一覚えているのは、白い壁と高いところにある小さい窓から見える青空だ。

それ以外はほとんど覚えていない。

だから入院患者の方々を観察したり話を聞くことで、自分の中での想像力を膨らませる必要があった。

市大病院の急性期入院病棟はベッドが838床ある。

中には何ヶ月も入院する人もいて、それぞれが様々な不安な想いを抱えているだろう。

毎日の検査の結果に一喜一憂し、自分の身体がどうなるのか不安な状況に立たされているかもしれない。うまく身体が回復しても、社会復帰がうまくいくとは限らないという不安もあるだろう。

特に急性期病院という場所は、予期しない怪我や病気によって入院するところだ。

まさに自分の日々の生活が変わり、心の中はとても不安定な状態にあるのではないだろうか。

そんな想像を巡らせていた。

 

空中庭園にやってくる人をずっと観察していると、一人でやって来る人が目立つ。

もちろん中には家族と一緒に来る人もいる。

しかし一人で病室を抜け出してやってきて、風を浴びながら街を眺める人々の方がぼくには印象的だった。

後で看護師さんから聞いた話によると、共同の病室に入る人は病室で泣くことが難しいらしい。

だからこういう場所に来て一人でこっそりと泣くこともあるということだった。

きっとぼくが想像もできないような想いをしているのだろう。

そんな患者さんたちに対してぼくに一体何ができるのだろうかと自問自答を重ねていた。

 

そんな看護師さんたちと話をしていると「癒し」という言葉が何度も出てくる。

ランドスケープデザインをしていると、植物や花によって癒されるということもよく耳にする。

しかし人が癒やされることを、何かとの単純な対応関係では語ることではないような気がしていた。

医療というのは人間の体を治療するものだ。

だから病院の中で癒しという言葉が上がることには何となく違和感はないかもしれない。

しかし医療を施すということと、癒しということの間は直接イコールで結べないような気がしている。

執刀や投薬ということは、癒しそのものではないように思えるからだ。

 

「傷が癒(い)える」という現象は、本人の身体が起こすものだ。

医療はその癒える力がうまく働くように手を貸すことしかできない。

癒しの力は生命の身体には自然に備わっていて、本人も気がつかないうちにその力が発揮される。

だから癒しというものを、誰かが誰かに意図して与えることが果たしてできるものだろうか。

そんな問いを巡らせながら、この場所で何をするのかを考えていた。

 

患者さんと同じように空中庭園に一人でたたずんでみる。

自分が狭い病室から抜け出して、暗い廊下を抜けてここにたどり着いたならば何を感じるだろうか。

そんな想像の中で院内を歩いてこの場所までやってくると、急に色んなことを感じる。

まずこの場所に吹き込んでくる風の気持ち良さが伝わってくる。

病室や廊下は空気が動かない。

だからとても息が詰まる想いをする。

ぼくがもし長い間入院するようなことになれば、きっとこの場所にやってきて風を受けたくなるだろう。

そしてここは光がまぶしい。

病室の中でも窓がある側にいる人はいいかもしれない。

しかしカーテンで仕切られていて、ずっと光を受けていないと、かえって調子を悪くしそうだ。

光は脳内物質のセロトニンをつくるので、光は身体にも必要なのかもしれない。

この場所は光に溢れている。

 

自然を感じるということは、変化を感じるということだ。

空気や光は自然の微妙な移り変わりを日々運んでくる。

風の表情や光の長さの変化が時間の移り変わりを告げるのだ。

自然はアマゾンのジャングルの中だけにあるのではない。

こうした日常のちょっとした変化の中にも自然は潜んでいる。

拭いてくる一陣の風によって、春の気配を感じることだってあるのだ。

 

そしてそうした変化に目を凝らすことは、自らの身体の変化にもまなざしを向けさせる。

日々、移り変わる自然を感じることは、同時に日々回復していく“身体という自然”を感じることだ。

自分の身体が刻一刻と変化して癒えていくことに気づくこと。

それが、癒しの力を信じることにつながるのではないか。

 

だから、ここではそういった瞬間の移り変わりの感覚をうまく増幅できないかと考えた。

実施もちょうど3月の末。

長い冬を終えて今からちょうど自然が命を吹き返そうとする季節だった。

きっと春の気配を風が運んでくれるはずだと考えていた。

 

最終的にぼくは、この空中庭園に吹き込んでくる風や光といった自然を見えるようにすることを提案した。そのための方法として500個のアルミ風船をこの空中庭園に浮かべることにした。

風船は空気に反応して動きを見せ、アルミは光を反射してきらめく。

その場所にやってくる様々な自然の流れを見えるようにする。

川の流れの中に花びらをそっと浮かべると流れが見える。

見えない変化が常に起こっている場所に何かを差し込むと、その変化が急に見えるようになる。

風船はその変化を見えるようにする媒介(メディア)としての役割をするだろうと考えた。

 

展示期間は2週間ほどが予定されていたが、その期間中に耐えることのできる強度の素材を探した。

それでアルミ風船を選択したが、丸いシンプルな形に無地のまま何も印刷しないことにした。

いくつもの風船を植え込みの中から赤い紐にくくりつけて浮かべることにした。

風船の形にもハートなどもあるので、そういうのを混ぜた方がいいのではないかという意見もあった。

しかしそれはここでは必要ないのではないかとぼくは判断した。

本当に必要なのは何かが自然に感応する様子であり、余計な情報はかえってそれを邪魔すると考えた。

 

当日、500個の風船を浮かべた空中庭園は壮観なオーケストラを奏でていた。

風が吹くたびに風船は右へ左へと大きく倒れる。

そして風の吹いたところだけが倒れていくので、風の通り道が見える。

時折強い風が一方向から吹いてくると、一斉にざぁっと音を立てて風船たちは倒れていく。

その様子はまるでダンスをしているようだった。

 

今までどちらから風が吹いてくるのかなど、人々は考えたことが無かったかもしれない。

しかし今は風の動きを見ることができる。

今日は東からの風が強いとか、風の流れが変わったということは、風船が告げてくれる。

同じ空中庭園の中でも風の通り道になっているところと風が通らないところが見える。

そして風が渦を巻いているところなども見えるようになった。

 

光も面白い効果を出していた。

風で回転する風船は角度によって眺めている私たちに反射した光を飛ばす。

そうするとカメラのフラッシュをたいたように光が明滅するのだ。

おそらく病院の外からこの空中庭園を眺めると、無数の光がチカチカしているのが見えただろう。

 

風の動きが面白いのは夕方だ。

3月の大阪は大体4時半頃に風がなくなる凪の時間がやってくる。

大阪湾の海の温度と陸の温度の差がなくなり、風がピタリと止む時間が一瞬訪れる。

その時には、この風船たちは天空を目指してピンと真っ直ぐに立ち並ぶ様子が見られる。

それは静かで厳かな風景だった。

 

さらに面白いのは実は雨の日である。

期間中に大雨が降った日があった。

その時、風船は水滴の重みで下がっていき、地面に這いつくばるような格好になった。

まるで、雨が降ると元気をなくしているかのように見える。

そして雨が上がり、乾き始めるとまたむくりと起き上がって息を吹き返す。

この風船たちは、まるで命をもっているかのように場所に訪れる自然に反応する。

それに自分の姿を重ね合わせるように眺める患者さんもいたと聞いた。

 

実はこの風船には一つ一つに言葉が書かれている。

そのためにあらかじめ院内の看護師さんたちから患者さんへのメッセージを募っていた。

その言葉を詩人の上田さんに500個の言葉に刻んでもらった。

それを一つずつの風船に違う言葉をつけることにしたのである。

 

風船の一つずつに違う言葉があることに患者さんは最初気づかない。

しかし近寄ってみると言葉と出会ってしまう。

「ゆっくりぼちぼちいきましょう」。

「しあわせってどこからくるのかな」。

そんな看護師さんからの言葉の中で、今の自分の心に響いてくるものがあるかもしれない。

もし気に入った言葉があれば、くくりつけられている風船をほどいて、病室へ持って帰ることができる。

 

病室というのはとても殺風景な場所だ。

植え込みがあるわけでもないし、山が見えるわけでもない。

病気の感染源にもなるという理由で、植木鉢も置くことができない。

だから病室では自然の気配を感じることが難しいのだ。

そんな病室に “風”と“言葉”を連れて帰る。

そうすると自然がないと思っている病室にも、ちゃんと空気が動いていることが見えるようになる。

微妙な空気の動きに反応して揺れる風船に、ほんの小さな自然の断片を感じることができないかと考えた。

 

入院患者さんたちが風船を持ち帰るので、風船はどんどん無くなっていく。

インスタレーションというのは挿入(インストール)という言葉が元だが、これは逆に減っていく。

だから来る度に徐々に無くなっていくプロセスをイメージしていた。

しかし驚いたことに、展示を開始して2日でなんと200個の風船が無くなってしまった。

あまりにも早く無くなってしまったので、慌ててぼくたちは風船を追加した。

この出来事は想像以上に入院患者さんたちは何かに救いを切実に求めていることを物語っていた。

 

病室に持ち帰った風船は日々しぼんでいき、その反対に身体はどんどん回復していく。

まるで風船が病気を吸い取っているようにも見える。

あるおじいさんが、風船に取り付けていた言葉のシールをはがして、自分のステッキにつけていた。

空中庭園の入口に訪れた人が書き込めるように置いていたノートにも患者さんからの書き込みがあった。

「風船はしぼんでも言葉はしぼまない」という言葉だった。

不安の中にいる人々にとって、たった小さな風船であってもそれは何かの拠り所になるのかもしれない。それは美術館の中では味わえないようなリアルな現場の感覚だった。

自らの命に向き合わざるを得ない患者を前に、癒しという言葉は使うことには、どこか躊躇を覚える。

しかし風や光のような自然。

そして人が込めた言葉は人が治癒するエネルギーをひょっとすると高めるかもしれない。

そんなことを信じ始めている自分に気づき始めた。

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