舞台「ルルドの森」

舞台「ルルドの森」

2017/11/01風景になる

2009年に主演した舞台「ルルドの森」で演じた三島春由紀という男は自分の中でも興味深い人物だった。実力派の役者さん達に囲まれる中での主演ということで、前線に立たされた気分だったが、終わってみると夢中で駆け抜けた中で僕が見た風景は幻だったのではないかというぐらいぼやけている。

 

2時間ほとんど出ずっぱりの戦場。

セリフの量も段取りも尋常ではなく、まさに舞台裏では戦争が繰り広げられている。

しかしなぜだろうか。

 

実は僕の中であの2時間の記憶はぼんやりとモヤがかかったように不鮮明なのだ。

僕はそのとき、あの場所で確かに笑い、怒りそして泣いていたというのに。

僕が演じた三島という男は、いったい誰だったのか...。

それは僕ではなく、そして脚本に書かれている男でもなく、第3の男なのだ。

今はまだ足下がおぼつかないけれど、この3日の間に、それまで3ヶ月かけて育てた1人の男が確かに舞台の上で生きていたという感触だけが残っている。

 

一枚の写真が自分をふと我に返す。

そこに写っているのは三島ではなく僕である。

隣に居るのも僕が愛したカノコではない。

さっきまであれほど命をたぎらせていた人物はどこへ消え去ったのだろうか。

 

果たしてルルドの森という場所には一体誰がいたのか。

それはたった3日間だけ命を与えられた人々なのだ。

その命の輝きは短いかもしれないが、それがご覧になった方々の中でずっと鮮明に残っている事を僕は祈る。

 

主演をしていたので、もはや客観的な視点でこの作品を眺める事が出来ない事は理解しているつもりだ。しかし、それでもなお役者としての内部からの眼差し、そしてクリエイターとしての外部からの眼差しの両方からこの作品の言語化に迫ってみたいと思う。

舞台を終えてから多少時間がかかったのは、あはりまだこの作品に対してのスタンスが定まらない事のタイムラグなのだろう。

 

この物語は、もともと映画をイメージしながら描かれたものであるということは言うまでもない。

観客の声に耳を傾けると、映画を見ているようだというつぶやきがたくさん聞こえることからも、この作品が持つ映画性というのは、意図通りであったと言える。

通常、こうした小演劇では一舞台につき10シーン前後の割り方がされるが、この作品は実に31シーンに分割されたイメージの断片から構成されている。

その内、三島警部補役として20シーン以上を出演する事になったが、割稽古の時にはイメージ同士が連結せずに、想定していたキャラクターが粉々にされ整合性が保てなくなるような体験を何度も繰り返した。

 

演じている感覚で言うと、もっとも印象的かつ激しくイメージが変わると感じたのが、三島警部補の過去の立ち回りから査問官とのやりとりを経て、三島の父親とのシーン、そしてカノコの部屋で朝を迎えるシーンへの下りだ。

ここは三島の感情表現が目まぐるしく入れ替わり、なおかつ幼児逆行とトラウマの起源を見せるという重要なシーンで、段取り以上に感情表現の切り替えの技術が要求される。

しかもシーツをかぶせられ、舞台に一人残されるなかでうごめくあたりは、観客にあたかもコンテンポラリーダンスを見ているような錯覚を演出的には狙っていたようだ。

これは僕にしか感じ得ない視点だが、舞台に一人残されシーツ越しに感じる観客の空気は、非常に興味深いものがある。

 

さて、全体的にこの作品は二重構造を持っている。ルルドの森というテレビドラマの中での出来事、そして現実世界で三島警部補を中心に起こる連続殺人事件だ。最後の下りでその二つの世界が交錯するところがポイントであるが、これがどこまで観客に伝わったのかは演じている側としては知る術はない。

後々に議論していて聞いた意見としては、テレビドラマの世界という記号性が今ひとつ弱かったということもあり、現実世界との交錯の印象性がやや薄れた感はあるという。

 

全体的にこの作品は一つ一つのシーンが非常に記号的な配置によって出来ている。キャラクターの単純明快な記号、物語展開の記号は全て想定の範囲内で捉えられたという意見も耳にしたことがある。

ただ、それを31シーンという膨大な数の中にマッピングして行くことで、物語のテンポやスピード感や回転感を担保していると言える。

この事が観客にとって息を抜かせないというプレッシャーになったことも事実であるが、物語を失速させないための演出としてギリギリのラインだったのだろうと想定する。

 

少し問題にしたいのは過剰性がもたらした効果である。

作・演出の細川氏の特徴であるが、この作品も例に漏れず意味合いとそれを指し示す記号が過剰に物語を埋め尽くしている。

偏執的なまでの意味へのこだわりと、明確な記号性がここまで過剰に詰め込まれると、観客側からはどこを見てよいのかが受け取りにくいという意見も耳にした。

膨大な意味が通り過ぎていったあとの残留物を咀嚼する間がなく、イメージに翻弄されることが演出の狙いかどうかは分からないが、個人的に思うのには、観客に解釈させるための時間的余裕と記号性の解体を目指す、つまり端的に言うと抽象的な表現を目指すという方向性か、あるいは、より濃密かつ過剰に具体的意味を上塗りし、それがある飽和点を超えた時に見せる静謐な残留物という方向性があるのだと思うが、この二つ選択肢のどちらもこの作品は取り得なかったのだろうと感じている。

作品の質としてはおそらく後者を取るべきなのだろうが、そのためにはキャラクターの記号性があまりに明快すぎるということが一つのボトルネックになっているということが自戒も含めて感じるところでもあり、もし再演されることになり再度人物のデザインを行うのであれば、そこが次の出発点になる。

とはいえ、作品としてテーマにすることの深みや現代的意味の部分においてこの作品が持つメッセージ性は何ら遜色は感じないのがこの作品の評価されるべき部分である。

ただ、記号が直接的に前面に出る事で伝えたい意味合いのノイズとして働くことは避けられねばならない問題であることに変わりはないのだが。

 

 

 

当時の同僚だった平田オリザさんの演劇論の中で自分の風景論と重なる部分がある。

それは「イメージの共有」に重要性についである。

自分とその他に舞台に立つ役者との間でイメージが共有されれば、そのリアリティは何倍にも膨らむ。

それは観客と役者との間でのイメージの共有が最終的な目的であるが、それを達成させるためにはいくつかの条件が必要である。

彼は戯曲を書くときにはイメージの共有しやすいものから入って、イメージの共有しにくいものへとだんだんレベルアップを図る。

そしてその時の共有の仕方として、イメージは遠くから入る。

砂漠と言われても砂だらけなのか、岩だらけなのかサボテンが生えているのかは人によって違うから、いきなり「ここは砂漠だ」などというセリフからは入らず、「砂が目に入った...」などという具体的な言葉からだんだんとイメージを抽象的な方向へ導く。

 

イメージというのは実は共有しやすいものと共有しにくいものがある。

共有しやすいものは例えば縄跳びなどだ。

縄を持っていなくても縄跳びの演技をすることはそれほど難しくはないし、見ている方もすぐに理解できる。

特に二人で端を持ってすると容易にイメージが共有できてしまう。

一人ではなく二人でイメージを共有するからだ。

ここが演劇が集団で行う芸術であるポイントでもある。

集団で共有されているイメージは観客にも伝わる。

逆に言うと役者間のイメージが共有されていないと観客にはさっぱりと伝わらないという事だ。

しかし、共有されやすいものばかりを見せられても観客は困るし、そんな事に金を出して見に来るというのは馬鹿げている。

 

観客が見たいのは、最も共有されにくいもの

それは人の心である。

愛とか憎しみとか、見えない心の中のもの。

それを観客に感じさせることが出来れば演劇は成功なのである。

 

それは容易には共有されない。

役者の間だってそうである。

それぞれが今まで生きてきた生き方が違うので、愛という言葉が持つ意味が違うのも当たり前だし、違うからこそ演劇はやる意味もあり、面白くもあるのだ。

「笑う」という一つの動作にしても、はにかんで笑うのか、嘲笑なのか、つい吹き出してしまう笑いなのか。またその人の人生においてそれがどのようなシチュエーションで表現されてきたのかは千差万別だ。

そんなように、役者によってそれぞれ違う表現を丁寧にすり合わせていく作業が必要である。

そうしたコンテクストの調整が演出家の役割なのだと思う。

役者の表現を、脚本や舞台の世界観と会うようにチューニングしていってすり合わせていく。

もちろん役者にはその演技の再現性が求められるし、そうしたコンテクストの幅と再現性が広い役者ほど経験と実力のある役者なのだと思う。

 

平田オリザを興味深く思うのはその演出方法を単に役者の技術と心理の問題として片付けないことである。

ここに役者ではない人々のコミュニケーションへの視座が見え隠れしている。

 

「どうしてこのセリフがうまく言えないんだ!」と怒る演出家がよくいるらしい。しかしそれは役者が悪いのではない場合がある。

役者の中にそのコンテクストが無い、もしくは理解していない事から発生する演技のつたなさであり、それを根性論や精神論でごまかすのは演出家の嘘である。

 

チェーホフの戯曲に「銀のサモワールでお茶が飲みたいわ」というセリフがあるが、日本の役者がそれをうまく言えないのは当たり前である。

なぜなら銀のサモワールでお茶など飲んだ事がないし、それがどういうシチュエーションで飲まれるかというコンテクストを理解していないからだ。

 

だから演出家がそこで必要なことは、役者が持っているコンテクストにすり合わせてイメージさせることである。

そのためには例えを出してみるとか、違うシチュエーションを与えてみるとか、違う身体の状態を作ってみるとか色々と手を尽くす。ついつい役者がそうしてしまうようなシチュエーションを作れると成功だ。

そこが演出家の忍耐と腕の見せ所で、尊敬を集める優れた演出家かそうでないかの分かれ道なのだ。

役者のコンテクストを自分のイメージするコンテクストに合わせるための引き出しがたくさんある演出家は優れている。

 

デザイナーもそれを日常の中でしかも言葉を介さずに行うべきである。

言われなくてもつい座ってしまうような椅子とか、気がつけば使ってしまっているようなモノをデザインできれば、デザインの持っている作家性などは問題ではなくなるのだと思うのだが...。

 

演技をそうとらえるとやっぱり難しいのは、僕たちが想像するけどコンテクストとして持っていないような演技である。

例えば人を殺すとか銃を撃つという演技だ。

僕たちは銃を撃った事がないし、人を殺した事がない。

だから銃を撃つということがどういう事なのかをリアルに感じる事が出来ないのだ。

演出側としてはそれがどうすればリアルに想像され表現に結びつくのかということを、役者に届く言葉を用意する必要がある。

 

そしてもちろん役者側の努力として、それをリアルに想像してみるという努力と能力が必要である。その想像が中途半端なイメージしか持ち得ていないのであれば、それは役者の嘘ということになるし、そこで役者が持ち得ていないイメージは決して観客には伝わらないだろう。

 

演出家はその役者の嘘を見抜いて、それを嘘でなくすための言葉と解決法を嘘無く用意しなければならない。

そして役者は演出家の嘘を見抜いて、その言葉が的確かどうかを自分の感覚と頭で考える必要がある。演出家の言う事をそのまま鵜呑みにするだけでは必ず失敗するだろう。

そうした無数のやりとりを稽古場で繰り広げながら、僕らは舞台で大きな嘘をつくのだ。

ぼくは台本には全くないが、この舞台で演じる人物の履歴書を書き細部までイメージできるようにした。

 

名前:三島春由紀

年齢:32歳

役職:警部補

勤務歴:14年

 

0歳:富山で生まれる。

1歳:父と母が最も幸せな時期。しかしその事を知らない。

2歳:言葉を話しだすのは早かった。

3歳 落ち着きが無く、目を離すとすぐにどこかへ。早くも近所の女の子にいたずらして泣かせてしまう。

4歳:情緒不安定な母親をよそに、無邪気に幼稚園入学。

5歳:父と母との言い合いが始まる。母はどうやら外に男が居るようだ。

6歳:母は家にいつかず、帰らない日々も続く。父と母は喧嘩が絶えず、しょっちゅう手が出る。布団にくるまってやり過ごす日々。

7歳:父と母がついに離婚。それを期に父と神奈川県八島市へ引っ越す。

8歳:学校で喧嘩して大怪我する。原因は母親が居ないという悪口に逆上。

9歳:野球を始める。親父がキャッチャーミットを買ってくる事件が起こる。

10歳:近所の野球チームに入る。親父とキャッチボールはこの時期。鉄塔を眺めて過ごす。

11歳:父が女を度々家に連れてくる。しばらくは家で世話をしてもらっていたが、その女にはなつけなかた。

12歳:中学入学と同時に野球部へ入る。丸坊主。

13歳:野球一筋。頭は悪くないが成績はあまり良くない。父親は女とは別れて職業を点々とする。

14歳:正義感は強く情にはもろいが、女の子の繊細な思いは気づかない。だが初めて女の子と付き合う。無神経で長くは続かない。

15歳:高校入学。入学早々、不良に目をつけられ大怪我するが助けられる。助けたのは空手部の先輩。それを期に空手部に入部。

16歳:空手一筋。成績はあまりよくない。暴走族に7半をぶつけられ瀕死になるが、警察が助ける。停学処分中に警察官になることを決意。

17歳:まだ富山にいる母に父が時々会っているようだと気づく。

18歳:高校卒業と同時に警察官になるため受験。神奈川県警の警察学校へ入る。

19歳:10ヶ月の初任科、8ヶ月の卒業配属での研修を終えて、巡査となる。

20歳:連絡があり母親と再会。ファミレスで話をする。父親はその事を知らない。

21歳:仕事一筋。配属された派出所付近は治安が悪く、よく立ち回りをする。母は病気のようで、父は面会に度々訪れている。

22歳:父が富山に帰る。原因は母が亡くなったため。一人暮らしが始まる。

23歳:昇進試験を経て巡査部長になる。

24歳:国家公務員 II 種試験を通過し研修期間を経て配属された黒船巡査部長と出会う。

25歳:生活は割とルーズ。女にはもてるが本当は女は信用していない。「口先だけの色男」と出戸からもからかわれる。

26歳:通過して行く女は多いが誰も満たしてくれない。この頃から黒船との間で何となく女を担当する役割に。

27歳:スナック「あざみ」が黒船との行きつけに。杉さんが裏の情報に精通していることを何となく気づく。

28歳:この頃から中込巡査と付き合うともなしに関係を持つ。中込の応援もあり昇進試験の勉強を。キャリアの黒船はすでに警部補。

29歳:昇進試験を経て警部補になる。キャリア志向の中込が少し面倒になる。

30歳:T号事件で平沼洋二を不当に逮捕。事件をきっかけに中込とは別れる。

31歳:休職とカウンセリングの日々。情緒不安定なところは母親ゆずりかもしれない。

32歳:現場復帰。八島市周辺の連続殺人事件。

 

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