親指の哲学 2018年6月

親指の哲学 2018年6月

2018/07/02親指の哲学

2018.06.30

皆さま、先の投稿にコメントお寄せ頂きまして本当にありがとうございました。また直接ご連絡下さった方や、あちこちで書き込みして頂いている方、ご協力を申し出て頂いた方々、既に動いてくれている方もたくさん居られ、ハナムラは本当に嬉しく思っております。

ただ皆様への感謝の念しか浮かびません。

心より深く感謝致します。

こうした一人一人の意識の変革とその連鎖が、本当の意味で、今の閉塞した社会の何かを揺さぶるのではないかと信じています。

そばで私をずっとサポート頂いているプロモーションの方とも常々共有しているのは、派手な広告宣伝をして名前だけが表に上がってくるような方法ではなく、ちゃんと内容に共感して頂いた方々による広がりを大切にしようと言うことです。ですので最後まで本書を読んで頂き、なおかつ共感して自分のまなざしの変革を始めた方々の手によってメッセージが伝わればいいなと思っております。

本自体が分厚くボリュームも多いのと、私の拙い文章や時には難しい内容も合わさり、なかなか最後まで辿り着けない方も居られるかと思います。前半はすぐにでも実践出来そうな街歩きワークショップや、手品やアートなどの話題ですが、だんだん後に進むにつれてそう簡単に実践出来そうのないことまで含めて掘り下げていけるように書いております。途中には自分の無意識を発見する心理分析の話を経て、最後の章には最も難しい自分のアイデンティティの正体の話へとたどり着きます。

私たちは分かっているつもりでも自分自身のことが一番見えていません。自分のまなざしは自分で見ることが出来ないのです。だから自分のまなざしが曇っていないか、醜く歪んでいないかを常に確認しながら、そしてそれを正しくデザインしながら日々を過ごすことが大切なのだと思っています。私自身がそのことを最も実践せねばならない身ですが、それがまだまだ至らないことも含めて自戒の意味も込めてしたためたつもりです。

ですので、どなたにでもお読み頂けると思います。是非ともそれぞれのペースで最後の章まで、お読み頂ければ大変嬉しく思います。

どうもありがとうございます。

2018.06.29

「まなざしのデザイン」を出版してから7ヶ月が過ぎた。だが出版から3ヶ月が過ぎて本屋から姿を消し、7ヶ月経って読んだという声も聞かなくなり、僕のメッセージは届けたい人たちに届いているとは言いがたい現実を突きつけられた。

僕はこれまで本を書けば人に届くと思っていた。そこに込められたメッセージが本当に大切なものならば、本を読んだ多くの人は、僕がお願いしなくてもきっと勝手に広めてくれると思っていた。一緒に作ってきた編集者やプロモーターの方や出版社、それにこれまで講演を聴いて共感してくれた多くの方々が、それぞれなりの方法で自発的に主体的にメッセージを伝え続けてくれると、どこかで期待していたのだ。

しかし自分の認識は随分と甘かったことを発見した。多くの人は買ってはくれたが僕の本を最後まで読んでいなかった。そして近くの人ほど読み始めてもいなかった。そして僕の話を聞いたことのないさらに大勢の人々は、この本の存在すらも知らなかった。

どこかの大手のメディアに取り上げられたわけではない。むしろ自分からそうしたメディアを使うようなことを避けていた。どこかで売名行為のような後ろめたい気がしていたからだ。

それよりも人の共感する能力や、良いメッセージを伝えたくなる気持ちを信じたかった。だから出版直後に一時帰国し全国各地へ話して回り、出来るだけ多くの人々に直接声を届けようとしてきた。実際にその時に多くの方々に支えてもらった。

4月に日本に帰国してから社会の様子を見ていた。まなざしが自由になっているどころか、さらに閉塞している感じがした。人は依然として見たいものにまなざしを奪われていた。見たいように見て自分には問題も責任もないと思っているようだった。日本はまだ豊かだが世界はもっと閉塞しているように思えた。バルセロナの独立運動のさなかに実際に命を削りながら最後の章を書いていた時と何も変わっていなかった。ますます小さな範囲しか見なくなっている社会のまなざしに対して地球には深刻化していく問題は増えるばかりだと感じた。危機感は募るばかりだ。

だがどこかで自分もメッセージを作ることが役割で、広めるのは他の人の仕事だと思っていた。メディアが逆に探し当ててくれることを期待していたし、そういう状況をつくるのはプロモーションの専門家にまかせようと思っていた。しかしそうやって人任せにしていた結果を自分は受け取ることになったのだ。

今こそ恥も外聞も捨てて、批判や誹謗を恐れずに、そして人に頼ることなく自分の手で、メッセージを伝え広めるところまでせねばならないことをはっきりと理解した。伝えることを人に期待していた自分を恥じ、傍観者である態度を改めようと思う。

だからどうか皆さんに助けて欲しい。それぞれなりのやり方で構わない。拙著「まなざしのデザイン」を最後の12章と”おわりに”まで読んでくれて、なおかつその内容に共感してくれた方。どうかこのメッセージを広めるお手伝いをしてもらえないだろうか。どんな小さなことでもいい。ほんのささいなことでもいい。誰かに呟くだけでもいいし、本の名前を紹介してくれるだけでもいい。僕もこの話をするためならどこに行ってもいい。どのような方法でも構わない。どうか手を貸して欲しい。

出版から7ヶ月経ち、新聞や大手メディアはもう話題としては取り上げない。大手広告代理店に協力してもらうような予算はないし、そもそも関心も持ってくれない。最後まで読んでくれた人はそうではないことを知っているはずだが、まだまだ多くの人は芸術の本棚に置かれたこの本を「デザインの本」だと思っている。

僕は名前の知れた人間でも、力を持った人間でもない。そして僕はプロモーションの専門家ではない。でもわずかながらでも本書に触れて深く共感してくれている人は居ると信じている。

おそらく自分の人生の中で、もう二度とこうしたプロモーション活動と呼べるようなものを自らの意思ですることはないと思う。だが今回ばかりはどうか助けて欲しい。

これまで助けてくれた人たち、そして最後までこの文を読んでくれたあなたにただ感謝したい。本書によって1人でも多くの人が自由になることを願っている。

欲と怒りを持たずに虚心坦懐にあれば、必ずや道はひらけるだろう。

人にしてきた期待をやめて、ただ感謝をしよう。

口にしてきた数多くの言葉を慎んで、確実な行動を重ねよう。

これまで出来なかったことをちゃんと認めて、これから出来る最善を考えよう。

人から認められずとも、人を認められるようになろう。

してもらえなかったことではなく、してもらったことを見つめよう。

誰かに頼らず、誰かを頼らせてあげよう。

自分の足で一歩一歩すすみ、転んでも独りで立ち上がろう。

どうしても苦しいときには、すこしだけ誰かの肩を借りよう。

それでも立ち上がれないときは、しばらく横になって休もう。

生まれて来るときは必ず誰かが側にいるが、逝くときには独りで歩まねばならない。

だからそのあいだの時間に、できるだけ誰かが自由になることを願おう。

人のまなざしをデザインするのではなく、自分のまなざしをデザインしよう。

これまではそうできなかったとしても、これからはそうやって生きていこう。

この本が多くの人に届いて、最後まで読んだ人が自由になればいいな。

 

2018.06.28

高校の社会科の教員たちが、誰に頼まれるわけでもなく自らの意思で”私たちが日本の高校の社会科教育を変える”と結成した会。

その会から講演とワークショップをお願いされた。

予算があるわけでも後ろ盾があるわけでもない。

自らの倫理観と、これからの社会を生きていく未来の人々のためをただ願って立ち上がった教員の集まり。

そんな熱い心意気を見せられたら応えるしか無いじゃないか!

そんな高校の社会科の先生たちに、7月10日15:00から「まなざしのデザイン」の講演します。

もちろん社会科の先生だけでなくどなたにでも聞いて頂けるので、これまで僕の話を聞いたことがなく、ご関心とご都合のつく方は是非ご参加下さい。

2018.06.27

本当にそれが大切だと思っていれば、人は誰かに指示されなくても勝手に動いている。本来仕事とはそういうものなのだろう。

何が大事か分からないと人は動けないし、それを自分ごとに思えるまでリアルにイメージするのはさらに難しい。優秀さとはイメージする能力とも関係している。自分のイメージ出来る範囲だけで動くことにもし限界を感じているのならば、そこには成長のチャンスはあるかもしれない。

2018.06.25

ぼくたちは選択肢を増やすことに力を注ぐが、選択しないという選択肢があることを忘れている。

ぼくたちはどちらの方向に進むべきかを考えているが、進まないという道があることを考えない。

ぼくたちは何を食べようかと考えているが、食を減らすことに思い至らない。

もしかしたら成熟とは拡大することではなく、減らしていくことかもしれないのに。

 

2018.06.24

すぐに分からないと言って、自分の理解の範疇でしか解釈しないスタンスが続くと文明は滅びるだろう。

自分の理解を超えたものがあることを認め、それを想像し、確かめ、理解しようと努めるからこそ先へと進める。

分かりやすくすることを目指すのは良いが、何でも短絡化・単純化することで人に答えとして提示するのはかえって人を盲目にする。それは深く理解する機会を奪っているのかもしれない。

自分の理解の範囲を広げようとしないと、共同体や誰かを導く立場には立てないことを覚悟しておきたい。

渋谷の書店のSPBSさんが拙著「まなざしのデザイン」の紹介をしてくれました。ちゃんと最後まで読んで頂いていることに感動と感謝。

spbs_tokyo

行き詰まった時は、視点を変えよう。

といったフレーズを頻繁に耳にしますが、いったいどのようにすれば良いのでしょうか。

その答えが『まなざしのデザイン』に隠されています。アイデアが出てこない、解決策が思いつかない…それをそういう時もあるで片づけてしまうこともなきにしもあらず。そんな″視点の凝り″を感じる方におすすめしたい1冊です。インターネットやSNSの発達によりたくさんの情報に目を奪われる今の時代、なにをみるべきか、日常で触れるモノの判断のヒントにもなるでしょう。

より一層寒さが増してきた12月。体だけでなく、まなざしの凝りも少しずつほぐしていきませんか。NY

#SPBS #spbs_tokyo

2018.06.23

歴史を裏側から見ると、それまで正しいとされていたものが嘘であったり、嘘だとされていたものが正しいことが見えてくる。

中世の頃に信じられていた天動説がルネサンスと大航海時代を経て地動説へ転換していく例が、真偽の反転の例として最も分かりやすいかと思い、昨日の地域デザイン論の講義では少々詳し目に取り上げた。

今の世で評価されているものだけにまなざしを向けていると、真理が見えて来ない。特にまちづくりや地域創造などと言われる領域は本来は長い視野で捉えねばならない。しかしどうも今の流行や派手な成果に目が奪われ、無意識にその必勝フォーマットに乗りたがる人が実際の地域を動かしている気がする。

まなざしの高度を上げて長尺で捉えると、歴史の中で繰り返し見られるパターンに気づくのだが、大切なのは個々の出来事に目を奪われるのではなく、そのパターンから学ぶことだ。

そんな思いから社会人大学院生向けの講義では、長尺の歴史の話をする事にしている。毎年少しづつはアップデートしているが、何度も聞きに来て認識を深めてもらえる学生もいるので、それなりに意味はあるのかもしれない。

昨日は前回の人類の起源に引き続いて、世界の気候風土の違いが、その土地の人々の精神性をどのように育ててきたのかを話した。

その土地の自然に向けるまなざしがその土地の宗教や文化や法を生み出し、その攻防の果てに今の世界の価値観が作られている。

フラーの流体地理学に基づいた話も、昨日は新たに少しだけ触れたが、陸から歴史を見るのか海から歴史を見るのかによって、まるで歴史観が違ってくる。僕らが教わる世界史はある側面から見たものであり、別の視座に立てば全く違う事実や解釈が現れる。

私たちは今自分が立っている場所から見える風景が正しいと思いがちだが、その”まなざしの罠”を知っているかどうかだけで、心の柔軟性がまるで変わってくる。

来週はアイデンティティと政治性の話題と、メディアが精神をいかに作るのかという話題の二つを話す。

この講義の後半は近代化以降の話が中心になる。だからテクノロジーやデザイン、システムと人々の精神との関係を紐解いていくが、来週ぐらいまでは古代から近世ぐらいまでの範囲で話す。

2018.06.21

今日の授業では拙著「まなざしのデザイン」の第9章に書いた”エゴギョウ”という性格分析のワークショップをした。

エゴギョウは、心理学者のエリック・バーンによるエゴグラム理論に基づいているが、食養学者の冨田哲秀がこの理論と中国の陰陽五行思想を組み合わせて考案したものだ。

我々は誰でも無意識の中に5つの異なる心を持っている。それは「自由な子供の心」、「寛容な親の心」、「批判的な親の心」、「適応した子供の心」、そして「大人の心」の5つだ。

この5つの心は、「火」「土」「金」「水」「木」という陰陽五行思想の5つの自然の要素に置き換える事が出来る。

この5つのバランスを見る事で、直感的に我々の心のまなざしを分析することができる。

このメソッドはまなざしのデザインに非常に便利なので、もし興味があれば拙著「まなざしのデザイン」をチェックされたし。

 

2018.06.20

昨日は関西に戻れなかったが、今しがたようやく何とか戻ってこちらの街で起こった風景異化の状況を感覚に落とし込む。

私たち人間には先に何が起こるかを完全に予想することは出来ない。こうであろうという想定を持っていればいるほど、それとは違うことが起こった時に判断や感覚が鈍くなることもある。しかし突如起こった非日常な出来事がそうした自分の普段の慢心を異化することがある。

とはいえ私たちは本当に愚かなので、それでもその慢心から逃れることは出来ず、見たいものを見たいようにまなざしを向けている。

私たちが考えている以上に、人とは本当に不自由な存在である。だからこそ慢せず己のまなざしを常にデザインする必要があるのだろう。人のまなざしをデザインするのではない。己のまなざしをデザインした結果、人のまなざしが変わることがある。そのためには己のまなざしに常に気づいている必要があるのだ。

こんな時だからこそ初心を思い出し、久しぶりに大阪で講演したい。

2018.06.17

千葉に着いた。

タイトル

2018.06.16

今日はアトリエに木田真理子さんを迎えました。ストックホルムで活躍する彼女は2014年にダンスのアカデミー賞にあたるブノア賞を受賞している素晴らしいダンサー。僕らは会って対話するのは2回目だけど本当に素敵な時間を過ごした。2人に出会いの機会を与えてくれた宮崎さんに感謝。

2018.06.15

本日より大阪府立大学経済学研究科・観光地域創造専攻の講義科目「地域デザイン論」がスタート。

社会人大学院生に対しての前期の僕の講座だが、毎回「景観進化論」と銘打って壮大な歴史の話をする。

地域デザインとか観光による活性化とかが急にブームのようになっている現状に対しての危機感が自分の中で大きくなっている。

だからこの講義では、人類はどこから来てどこへ向かおうとしているのかという長尺スケールの中で旅の歴史、人間のまなざしの歴史、開発の歴史、デザインの歴史などを自分なりの切り口で話すことにしている。

今日はIntroduction とOrigin の2つを話す。Introduction ではこの講義はどういう補助線で話すのかを最初に示す。旅は人をどう変えたか、地域は人の手でどう変化してきたか、人間のまなざしは何を見つめてきたのか、デザインとは好みの問題なのかなどの問いを投げる。

Origin では、人類の起源と移動の歴史、シャーマニズム、聖地のデザイン、環境創造の起源などを話す予定だ。

そもそも学校で教える歴史というのはとても短い期間だ。地球46億年の歴史を24時間時計にして0:00からスタートして24:00が今だとすると、人類の歴史など23:59:58からスタートしたに過ぎない。

我々が今共有する価値観や正解のモデルはたかだか数十年、もっと言うと数年の事象に過ぎない。

まなざしの高度と時間軸を上げて方向を見定めねば、少しの狂いがとんでも無い事になる。

そのあたりから紐解いて行くことで、短絡的で享楽的にも見える今の資本主義社会における地域デザインに対して少しでも批判の目を育ててもらえればと願う。

2018.06.14

最近、自分の中にあるコミュニティという言葉の違和感に気づき始めている。僕は「コミュニティ」にはまるで興味ないが、「共創」にはとても関心があるようだ。この二つは似ているようで大きな違いがある。共創とはそれに参加すれば、だれでも何か貢献できることがあるという状態だ。努力なしに利益をただ待っている態度とは異なる。

 先週の大学の講義「世界の見方を変えるレッスン」のテーマは「顔」。我々は顔が自分のアイデンティティだと思っているが、顔とは変化するものである。時間が経つにつれて、同じ人物を特定するのはだんだん難しくなる。

顔とは我々の想像力に大きく依存している。顔が同じイメージとして保たれていれば、それがまるで違う形をしていてもその人を識別することができる。また、メイクすれば同じ顔だと認識できなくなる。

顔とは不思議なものである。

ひょんなことから前衛アートパフォーマンスグループの「具体」に関わることになるかもしれない。僕は彼らのことはほとんど知らない。だからこそ良い問いを投げることが出来ると何人かのアーティストの方々は言ってくれた。彼らについて事前に勉強しておくべきかどうか…。

「具体」は世界的に有名なのだが、僕はほとんど知らないことに気づいた。灯台下暗し。

多分アートというジャンルそのものには関心が無いのかもしれない。

2018.06.13

最近、美術館でする次の作品を考えているが、どうやら流体力学に関心があるようだ。自分が何かを作る動機は、単に人間も含めた自然に対する好奇心に過ぎないのかもしれない。何かを表現したいという欲求ではなく、何かを深く理解したいとい欲求なのだろう。

2018.06.12

これから学内で昨年の欧州での研究成果の講演。

理事とか各研究科の部局長とかが集まる偉い人たちの会議だが、皆さん専門がまるで違うので、マシンガントークは控えて出来るだけ分かりやすく話そうと心がける。時間も15分しかないので、ポイントを三つだけ絞る。

しかし昨年1年で55都市回ったとは自分でも驚きだが。

 

2018.06.10

今日は弟の5回忌。家族が一同に集まり彼の死を悼む会を持った。

この5年間は自分の心を悲しみに浸していたが、そろそろ立ち上がって前へ歩き出すべき転換点に来ていると思う。

彼が亡くなったのは30歳だった。父は亡くなってからはもう27年が経つ。

人は誰でもいつかは死ぬ。それを避けることは出来ない。だからこそ日々の生活を充実することがとても大切なのだ。

私たちはすぐに未来のために生きたり、過去に縛られて生きたりする。しかし今この瞬間をしっかりと生きることが大切なのだ。

 

2018.06.08

自然は世界にエネルギーを与える。

芸術家はエネルギーから直感を得る。

哲学者は直感の理由を考える。

科学者は理由から法則を見つける。

技術者は法則を技術に変える。

デザイナーは技術からインターフェースを創る。

ビジネスマンはそれを人々に届ける。

では受け取った私たちに何が出来るのか?

私たちは自然にエネルギーを与えることが出来るはずだ。

2018.06.07

僕にはたくさんアイデアがあるが、多くの人はそれを聞きたいとは思っていない。もし聞いたとしても、それを理解したいとは思っていない。もし理解したとしても、それを受け入れたいとは思わない。そして受け入れたとしても、それを実行したいとは思わない。ほとんどの人は自分のしたい「欲求」に沿って物事を見るからだ。だからもし僕のアイデアが正しくて効果的だったとしても、その人たちのしたい「欲求」に合っていないならば、僕は黙らざるを得ない時がある。

2018.06.06

鹿児島水族館にて美しい海の中の風景について考える。こんな海になぜ我々はゴミを投げ続けているのだろうか。

福岡市内を訊ねてあちこち彷徨い歩き、ついに会いたかった人を見つけた!杉山博士に心より感謝。

九州大学の芸術工学部に来たがお目当てのモノが見つからず。しかし福岡市内にあるとの事なので調べると、何と泊まっていたホテルの近く…。同じ道を引き返すのは心折れる。

鹿児島で調査を終えそのまま博多へ戻り、九州大学の人類学者の飯嶋秀治先生と対話させて頂く。昨年の「まなざしのデザイン」の出版キャラバンの時に、リパブリックの田村さんのご紹介で対談させてもらって以来だが、今回も二時間あっという間に終わるぐらい途切れなく話した。

前回は僕の話ばかりしていたので、今回はじっくりとお話しをお聞きしながら対話した。記憶の範囲では以下のような話をしたように思う。

ワールドプロセッサ以降のインゴギュンター、オーストラリア先住民とエリアーデの誤解、トーテミズムと生態学の共通性、荒川修作の作品とポストモダン建築、岡本太郎と坂本龍一と松任谷由実とウォーホール、そして黒川紀章の二重性へ、西岡常一と人間環境論、宗教植物学に目を止めた鷲田清一、統合失調症と白紙の枠、メタボリズム後の社会学的建築、ゴリラを研究するとゴリラに似てくる、還元主義を超えるケストラーとベイトソン、ニューエイジとウシのゲップ、ミルトンエリクソンとペドロコスタの手法の類似、レンズと鋭角なまなざし、垂直と水平の天孫降臨、フンボルトとダーウィンの人類の起源、フラーの流体地理学とイルカ、局所的理解への恐怖、釈迦が見た病気の人類、ジェンドリンのフォーカシング、アイツを変えてオマエを変えてやる、狩猟採集民と阪口恭平の限界、鎌田東二と植島啓司の比較にみるスタイリッシュの効果、旅人算の旅人はなぜ旅をするのか、閉じる初期仏教と開く密教、ダライ・ラマの狂気、ホームレスとカジノ、イゾルデ・ピグミー・アボリジニ、大阪の欲と淀み、カッコいいデザインのカッコ悪さ、ホワイトキューブシステム、アーネムランドと地図の芸術、ローマの地下遺跡と歪みのリアリティ、踊る映像人類学、水俣研究とゲーテインスティチュート、シャウベルガーと流動デザイン、流行りに飛びつく不粋な感性…。

こう並べると対談本が一冊出来そうな勢いだな…。

全方向型で包括的にお話し出来る研究者とは、こちらも理解度を気にせず遠慮なく話せるからとても気持ちいい。

飯嶋先生、知的談話を交わせてとっても楽しかったです。またやりましょう〜。どうもありがとうございました!

2018.06.05

霧島神宮でのフィールドワークを終える。それほど大きな神社では無かったが、興味深い体験をした。

これまでは、神社に入る前に鳥居のような領域を示すランドマークや、手水のような儀式が”なぜ必要なのか”が理解できなかった。だがそれが必要な理由が腑に落ちたかもしれない。自分なりに満足したのでまだ調査の時間はあるが鹿児島へ引き返す。

 

人工知能学会の案内板を持つ学生発見。

桜島のフィールドワーク。

ジオパークにも選定されている活火山で毎日のように火山灰を噴き出している。

島内の交通手段がほぼ無いので、アクセスが難しいがひとまずフェリー前の月読神社に訪れた。

それなりに収穫あり。

鹿児島水族館で行われた仕掛学研究会では水族館の仕掛について議論して盛り上がった。

特に館の最後に展示されていた「沈黙の海」という何も中に入っていない青い水槽を巡って議論は白熱した。この展示は人間の破壊によって海に生命がいなくなるのとを意味している、非常にコンセプチュアルな展示だ。

僕自身はそれは現代美術のようなものだと考えているので、それを理解しやすくするために水族館のような自然博物館と現代美術館との性質の違いを指摘した。

自然博物館では正しい知識を理解してもらうという展示目的があり、そのための説明が必要だ。しかし現代芸術には時に正解は必要なく、そこに「問い」が必要なことがある。

基本的には、仕掛はソリューションのために使われるため、問いを投げかけるのに用いるのは難しい。しかし真の解決策に至るために問いを投げかけるのが必要な場合もあると僕は考えている。

美術館とはそうした問いに満ちた場所であり、それは日常の中で答えのない「問い」に対していかに想像力を鍛えるのかという修行の場でもあるのだ。

 

2018.06.04

本日の人工知能学会の「仕掛学研究会」の会場となる鹿児島水族館。この研究会のアドバイザーという分不相応な立場だが、末席に座らせて頂く。

後ろの桜島がすげぇ…

鹿児島到着。暑い。

大河ドラマの「西郷どん」で街は盛り上がっているようだ。

道の模様が奇妙だと思っていたら、火山灰か…。

さすが最も活火山に近い60万都市。

鹿児島へ向かう道中で、九州の聖地について勉強。これまで九州について学んだことは無かったが、非常に興味深い伝説や歴史がある。

 

福岡から鹿児島へ向かう。九州新幹線に乗るのは初めて。

 

博多駅着いた!

 

2018.06.03

新潟を後に福岡へ飛ぶ。

 

「データスケープ」というワークショップを新潟で始めた。このアイデアは僕がまだ大阪大学に居たころにしていた実験的なプロジェクトから来ている。今回新潟では県及び市の職員がワークショップメンバーとしてご一緒にすることになる。

僕自身が考えているコンセプトや狙い、方法論を説明する前に、まずはメンバー一人一人と対話をしてキャラクターを把握する。このプロセスはチーム構成に非常に重要。

このワークショップのアイデアはもう10年以上暖め続けて来たので、すごく面白いものにしたい。

 

新潟で「まなざしのデザイン」の話をするのはもう5回目ぐらいだが、聴衆のほとんどは今回が初めての人ばかりだった。伝えたいことが多すぎて、意識しないといつも2時間以上話してしまう。

 

2018.06.02

芸術祭のワークショップのために新潟へ向かう。

日本に帰ってから飛行機に乗るのは初めて。

 

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