親指の哲学 2018年5月

親指の哲学 2018年5月

2018/06/05親指の哲学

2018.05.31

新入生のために、毎週「世界の見方を変えるレッスン」という実験をしている。今日の授業は「顔」について。

顔とは一体何なのか?顔と貌はどう違うのか?顔は果たして私たちのアイデンティティを保証するものなのか。そんな「顔の風景」を巡る哲学を学生の顔写真を使ったワークショップとして実践する。

ほとんどの学生は自分の顔にコンプレックスがあると感じているようだ。

2週間前に学生には、自分の5歳未満のときの写真を持ってきてもらった。 今日は生徒同士のペアを作って、お互いの顔を無言で1分観察しあってから、子供の頃の顔写真を選択するように指示した。

人間の顔は徐々に変化するものだ。必ずしもアイデンティティを保証するわけではないし、文脈によっていかようにでも変化する。しかしある幅の中で、顔は個性を表す。

何より重要な事実は、私たちは多分に”イメージ”に依存して顔を見ているということだ。

そのあたりは次週に、我々がどのように顔を見ているのかの様々な事例を、スライドをたっぷり使って引き続き話をする。

 

2018.05.30

安易な成功体験を得ることは、その人の深い思索を妨げる。

どこかで成功していることに飛びついてそれを持ってくることは、真の創造性を奪う。

本当は何が不自由な状況なのかを見つめずに、華美で派手な成果を生むことだけに目を奪われると、見えないところで問題は膨らんでいく。

既に充分足りていて豊かなことを知らずに、まだ足りないと欲望を募らせていると、いつまで経っても満足出来ない。

あなたのため、この場のためと言葉巧みに並べられた美辞麗句に耳を奪われると、騙されていることを見抜けない。

本当にあなたのためと言うのであれば、嫌われようとその人が見えていない耳の痛いことを言うもので、己が利益を得ようとする者が、都合の良いとこだけを切り貼りして並べるのである。

誰かに良かれと思って与えすぎることは、かえってその人の成長や自発性を妨げることになることがあることを再度自覚する。影響力を持てば持つほどその責務がある。

2018.05.28

京都大学で行われた日本造園学会の全国大会に参加した。何人かの知り合いがこの学会で受賞していて、そのことに心より賞賛したいと思う。

そしてこの学会の書籍販売コーナーに拙著「まなざしのデザイン」も置いてもらえてとても光栄だった。この学会には僕の本は適していないかもしれないと思っていたからだ。学会関係者の方々にも読んでもらえれば嬉しい。

2018.05.25

大学一年生の講義で「世界の見方を変えるレッスン」という試みを今年はしている。

大阪大学コミュニケーションデザインセンターに居た頃に、鷲田清一先生と一緒にしたイメージリテラシーの講義がベースになっているが、言葉と言葉でないものとの間の関係を考える実験を毎回試す。

これは学生が自己紹介している様子だが、自分が愛しているものと憎んでいるものの画像イメージを持ち寄って、それを見ながら2人が対話している。

他の生徒は後ろを向いてその会話を聞きながら、2人が話しているものが一体何なのかを言葉から得られる情報と想像力だけで類推する。イメージがどこまで言葉で共有できるのか、またそのズレによって発見できる自分の頭の中にあるものは何か。そんな自分の見方を知るレッスン。集合的意識によるイメージ把握が可能なのかの実験にもなる。

この3月まで高校生だった学生たちが、人前で話しをすることをあまりに緊張するので、こういう方法を取ることにしたが、面白い実験になっている。

大学の講義というのは、その元々の成り立ちからも学生と一緒に作り上げていくものだ。良い意味でコミュニケーションの実験的なことをして、そこで起こったことを対話しながら哲学していくという体験はきっと今後の彼らの研究にも人生にも役立つのではないかと思う。

特に大学に入りたての若い学生は本当に緊張している。全ての失敗は身体と心の緊張からやってくるから、いかに緊張を取り去り対話へ導くかがポイントのように思える。

反対に社会人の大学院生たちには学びに対する緊張感のないのが問題の場合がある。特にビジネスをしている人は、ここで口を開けていたら何か一つでも盗めそうなアイデアを放り込んでくれないかと期待する態度を持つこともある。そういう姿勢を一蹴して、大学院とはどういう場所で、学びに対して真摯になれないのであればくる資格はないことを静かに伝えるようにする。

人に何かを教えるというのはそう簡単な事ではない。「人を見て法を説け」という仏陀の教えがあるが、相手を観察して、自らが試行錯誤して学びながら実験をしていく必要があるのだろう。教えることは学ぶことだ。

2018.05.23

今週はインビジブルキュレーターの最初のデジタルレジデンスアーティストとして7つの記事と7枚の写真をインスタグラムに投稿した。

このプロジェクトはアムステルダムから始まり、ピックアップされたアーティストがそれぞれの作品の背後にあるコンセプトを紹介する。

僕の場合は「まなざしのデザイン」と「現象アート」、「移動する地球」、「仏教科学」、「神聖幾何学」などを融合させた「フローデザイン」をいくつかの本を交えるシャッフルリーディングとして紹介した。全てのテキストと写真は僕が書いて撮影したものだ。自分の無意識を掘り下げるのにとても良い機会だった。

キューレーターのメリ・ゲンチボヤッチに心より感謝。

インビジブルキュレーターのデジタルレジデンスアーティストとしての最後の投稿。今日のシャッフルリーディングには拙著「まなざしのデザイン」を取り上げた。

21世紀に入り量子物理学や分子生物学が完成してからは、物理学を心理学から分離することが難しくなった。

量子物理学では原子の位置は確率の問題であり、しかも常に動いている。私たちの体も多数の細胞で構成され、常に形は変化している。最先端の科学は、こうした極小さな物質を構成する力が我々の”意識”であるという仮説を立てている。

我々は意識や想像の力を過小評価しているが、風景のリアリティには強く影響する。

眠っている間に見る夢の中の風景は現実のように我々には感じられる。それと同じように、実際の風景が夢ではないと言い切れるのだろうか。

ランドスケープは地面、植生、構造物などの物理的要因だけで構成されているのではない。通常はデザインとはこうした物理的な要素を意味するが、風景は他の要因によっても決まる。それが私たちの視点や想像力を含む心理的要因であり、我々の心こそが風景の真実を生み出し、我々の意志が世界の現実を生み出す。意志とは自我を意味するものではない。意志とは未来への想像力なのだ。だから本当の風景をデザインしようとするならば、デザインしなければならないのは我々のまなざしである。

2018.05.22

インビジブルキュレーターのデジタルレジデンスアーティストとしての6日目の投稿。

我々は「定住社会」に住んでいる。この社会は1万年前の農業の始まりとともに生まれた文明に基づいている。我々が大自然を漂流し、狩りをしていた頃、おそらく身の周りの全てのものは変化していると感じていただろう。 「狩猟社会」と比較して、「農耕社会」は比較的安定しており、循環する時間の感覚を持っていた。すべての物事は相変わらず変化していたが、同じ時間がサイクルとして巡ってくることを理解していた。

しかし時代が進むにつれて、社会の変化は加速し、ついに今世紀には高速で動く世界を迎えている。今、私たちのモビリティは急速に高まっている。情報のモビリティ、お金のモビリティ、製品のモビリティを意味するが、この情報社会では、私たちの意識は物理的な制約を飛び越えて常に世界中を駆け巡っている。

それだけでなく、私たちの物理的なモビリティも、特にこの10年間で世界中に広がっている。 2020年には世界は16億人以上のツーリストに達すると言われている。そんな「流動社会」は我々の生活のあり方を間違いなく変えるだろう。

私たちの宇宙はすべてプロセスと変化である。どんなに私たちが変わらないことを望んでいても、他の形に変わることは避けられない。それは自然現象だけでなく、社会現象にも同様のことが言えるのである。

2018.05.21

インビジブルキュレーターのデジタルレジデンスアーティストとしての5日目の投稿。

この世界にある「流れ」の中で最も重要なことは、我々がどこからやってきて、どこに行くのかということだろう。

人生は常に流れている。しかし我々は生まれる前がどうだったのか、そして死んだ後にどうなるのかをまるで知らない。なぜ我々は生まれて死ぬのかという理由はわからないのである。

仏陀はその理由を考えていた。彼の時代には、死後に生まれ変わるという概念である輪廻の考えは、インドでは常識だった。

仏陀は我々の人生には、生、老、病、死といった4つの苦しみがあると考えた。後者の3つの苦しみを理解するのは簡単だ。しかし、なぜ “生”が苦しみであるのかを理解することは難しい。

仏陀の論理によれば、我々の苦しみはすべて生まれてくることに原因があるという。だから、もし再び生まれなければ、苦しみもないはずである。

仏陀はこの輪廻から抜ける道を見つけて、それを涅槃と呼んだ。そして彼は我々が生まれてくるのは”ドゥッカ”のせいであると結論づけている。ドゥッカは通常、「痛み」や「苦しみ」と翻訳されるが、「不満足」と翻訳すべきなのではないかと思う。

死後に我々はなぜ生まれるのか?それは不満足な気持ちを持っているからである。我々は完璧への欲望を持っている間は、満足することはない。このエネルギーが私たちを生まれ変わる方向に向かわせている。

だから我々が毎瞬を満足しているなら、決して再び生まれ変わることがない。仏陀はそういう認識と状況のことを涅槃と考えていた。それはいわば、動きの流れを止める方法であると言える。

2018.05.20

インビジブルキュレーターのデジタルレジデンスアーティストとしての4日目の投稿。

この惑星において最も基本的な流れは水だと言えるだろう。地球の表面は水で覆われており、地球上のあらゆるところに水は存在している。そして体の60%は水で作られていることも我々は知っている。もし水を飲まなければ、我々は3日間生きるさえできず、あらゆる生命にとって水は必要不可欠だ。

水は水平と垂直に循環している。水は山から海へと長い距離を旅して、海で別の形である雲を作りだす。だから全ての生命は、体の中から巨大な海まで、水でつながっていると言えるだろう。

水は温度によって形や密度を変化する性質を持っており、また振動を受け取る非常に敏感な媒体である。こうした水の性質が生命にエネルギーを与えている。

地球は内と外から3つの異なるエネルギーを得ている。最も大きなエネルギーは太陽から来ており、次に大きなものは地球の中心からやってくる。この2つのエネルギーは火によって作られているものと言えるだろう。そして3番目のエネルギーは月から来ており、振動によって海の潮流や血液といった水の流れに影響を与えている。しかし、我々はこの影響を見過ごしている。

今、私たちの世界は、燃料と核の融合や分裂によって作られた火の技術に依存している。しかし、水の渦力を利用してエネルギーを作り変えることが出来れば、自然と共存する新しい文明を生み出すことができるかもしれない。

2018.05.19

アムステルダムのプロジェクト「インビジブルキュレーター」のデジタルレジデンスアーティストとしての3日目の投稿。

古来より人々は自然の裏側に隠れた不思議な数や形に魅かれてきた。素数、黄金比、フィボナッチ数列。 自然の秩序に潜む数学的な概念は神聖幾何学と呼ばれている。古代の人々は神聖幾何学の概念を使って、ピラミッドやストーンヘンジのような聖地を世界各地に建設してきた。 あるいは整数のような調和した数を使って音楽を作ってきた。

神聖幾何学は自然の形から導かれているので、DNAの構造から銀河の形まで、この秩序が形を支配しているように見える。

しかし正確に言うと少し違う。この秩序は確かに自然の形を導くが、常に不完全な状態のままだ。螺旋状のオウムガイは黄金比のように見えるが、細部の形は不完全な比率になっている。

生命は完璧な数と幾何学を目指して成長し進化する方向に向かっている。 しかしそれが完全に達成することはない。

自然の秘密とは、生命が未来永劫に渡り決して満たされることはないということにある。だからこそすべての生命は進化に向かっていくのである。

2018.05.18

インビジブルキュレーターの2日目の投稿。

自然は物理法則に満ち、すべては因果関係のサイクルに基づいている。自然界のすべての形は、自然のルールによって作られ、その因果関係によって時間経過とともに変化する。生命や自然は、言い換えれば「動き」を意味し、すべての形は「動き」から生み出される。水、雲、火、そして大地も、それぞれ独自の時間スケールに沿った動きによって形作られている。私たちの体も膨大な細胞で形作られ、それらは常に変化して更新されている。

エイドリアン・ベジャンという熱力学の科学者によると、これらの運動は一つの規則に従っている。 それは「コンストラクタル法則」と呼ばれている。この法則は非常に単純だが、最も基本的なものである。それは、あらゆる現象におけるすべての形のデザインは、よりスムーズな動きを促す方向に従っているというものだ。木の形、川の形、動物の形、雷の形などのあらゆる形の動きは、この同じ法則に従っている。

昨年に出版のために一時帰国した際に受けたインタビュー記事が、いつのまにかウェブに掲載されていた。少々気恥ずかしいが、うまくまとめていただいているのでシェアしたい。

ハナムラチカヒロ|ランドスケープアーティスト

2018.05.17

 

“地球”は世界で最も大きなランドスケープだろう。今年は、アポロ8号に乗った人類が初めて地球の風景を外から見てからちょうど半世紀にあたる。それ以来、すべての生命がこの惑星の表面に共に生きていることを私たちは知っている。

だから私たちは何かを創造し表現するときに、常に地球という観点から私たちの思考を始めるべきなのだ。

私たちが何かを生み出すとき、それは表現されたもの自身だけでなく、地球の残りの部分にも影響を与えている。

大地に1つの三角形を描くと、それは三角形に囲まれた部分と、それ以外の地球の表面という2つの部分に分けていることになる。

私たちが何かを表現するとき、我々は地球の残りの部分にエネルギーを与えており、同時にそれからエネルギーを受け取ることもある。だから私たちは常に自分たちが地球と宇宙の一部であるという考えを持っているべきなのだと思う。

2018.05.12

部分にいくら細分化しても、そしてそれらをいくら積み上げても理解できないことがある。いきなり全体として把握する右脳的な直感を、いかに左脳的な原理化へと導くかが肝要ではないか。

芸術家は遥か昔から全体として把握する直感的な能力を発揮して来た。しかしそれを原理化する方向には行かず個人の感性の中に仕舞われた。

また科学は、特にこの200年は顕著にミクロな領域を支配する原理から出発し、それらを積分することでマクロな現象を予測する方法を取って来た。

しかし直感的に捉えられるマクロな観測事実をそのまま原理として捉えることで、包括的にもれなくあらゆる現象を扱える演繹的な方法になりうるはずだ。

2018.05.07

この祝日は、フィールドワークも兼ねて仏教の瞑想合宿に参加する。昨年はヨーロッパにいたので、毎日12時間の瞑想を7日もするのは実に1年ぶりだ。その間に上座部仏教の長老と何度かディスカッションする中で、自分の思考も急速に進んでいる。

僕の「まなざしのデザイン」のアイデアは、仏陀の思想に非常に影響されているが、仏教は宗教ではなく宇宙に関する膨大な洞察であり、物理学と心理学を繋げる高度な科学ではないかと思っている。

だから僕は”一つのこと”を除いて仏教の論理を概ね受け入れている。 その一つとは仏教の中心にある事柄だが、唯一宗教的な部分であり信じることが必要だからだ。何度か長老とディスカッションしてみたが、そこだけは未だに理解することができない。おそらく真髄の核心部分は思考することでは理解できず、実践を通じてのみ理解が及ぶのだろう。

 

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