親指の哲学 2018年7月

親指の哲学 2018年7月

2018/08/09親指の哲学

2018.07.29

最近は戯曲を書きたくなってきている。

これはこれまでの人生ではなかったことだ。

物語はこれまでにも書いたことは何度もある。

役者として誰かが書いた物語の人物を演じることもしてきた。

自分の演出するパフォーマンスやアート作品でも物語として表現することは多い。

しかしそれを「戯曲」という形で表現したくなる欲求は不思議とこれまでなかった。

なぜだろうと考える。

自分のパフォーマンスを最大限に発揮するためには、書物という表現方法では限界があると感じたことが大きい。

本を書いても多くの人は読まない。

だが僕の場合は、直接語りかけるのであれば聴いてやっても良いという人は多少はいるように思える。

そう考えると、同じ文字にするのならば、学者として戯曲を書いて、役者として演ずることを前提にすればいいように思えてきた。

実際、自分の講演や講義は大体が芝居のようなものである。

内容を伝えるために自分の身体と言葉をより有効に機能できるのであれば、戯曲として書いて自ら演ずることで、研究を社会還元しても良いのではないかと思う。

アカデミズムの中では言えないようなことも含めてちょっと実験したみたくなっている。

 

2018.07.27

「人間は群衆で考える。人間は群衆になると理性を失うが、正気を取り戻すときにはゆっくり一人ずつ取り戻す。」

今、自分がメッセージを投げる先として向いているのは組織でも市場でもコミュニティでもない。あくまで個人に向けて語りかけているつもりだ。なぜならばチャールズ・マッケイのこの言葉が真実を付いていると思うから。

2018.07.26

バルセロナ在住のジャーナリストのコリーナ・トゥルブレがハナムラにインタビューした記事が、スペインのガリシア地方の雑誌「Luzes」に掲載されました。

ガリシア語あるいはポルトガル語が分かる方は是非ご覧ください。

 

人間の愚かさは、それがあるとさえ理解しておけば、逐一見咎めなくても良いものだ。確認しても反応しないようにしたい。

 

2018.07.25

バルセロナ在住のジャーナリストのコリーナ・トゥルブレがハナムラにインタビューした記事が、スペインのガリシア地方の雑誌「Luzes」に掲載されました。

有料ですがガリシア語あるいはポルトガル語が分かる方は是非ご覧ください。

Chikahiro Hanamura: «A paisaxe é a nosa imaxinación»

2018.07.24

本日の最後は我が友サヘル・ローズとほんの少しだけ品川駅ですれ違いがてら会う。

一緒に共演した映画「冷たい床/ cold feet」(監督:末長敬司)がカンヌ国際映画祭に出品され、ニース国際映画祭では作品賞を頂いたことを祝う。

今回はお互いの仕事の合間。なので長くは話せずに挨拶ぐらいだったが、元気にやっている姿を心から嬉しく思う。

彼女とは同じ日本で育った外国人同士として、友人以上の同志か戦友としての親近感を勝手に感じている。

舞台か映画、あるいはアート作品とかで、また一緒に何か表現できる機会があるような気がしながら、東京を後にする。

湯島のリパブリックさんのオフィスへお邪魔して、2時間ほど喋り捲る。

包括的に思考している人が少ない中、ディスカッションにお付き合いいただける貴重なオフィス。

バルセロナ大学時代に勝手に僕が自主ゼミをしていた学生の神尾くんもこのオフィスにジョイントすることになったので、彼がこれから取り組むプロジェクトの中身をみんなで勝手に考える。バルセロナでのゼミの延長のようで楽しい時間だった。皆様へ感謝。

2018.07.23

本日は国分寺の情報通信研究機構で打ち合わせ。

ちょっと次のインスタレーションに向けてのヒアリングなど。

2018.07.20

インターネットラジオ「朝活ゆめのたね」のゲスト出演の収録終了。

拙著「まなざしのデザイン」の内容を巡って、パーソナリティの三石さんに色々と引き出して頂く。

「霧はれて光きたる春」の情景を書いた7章の一節も朗読して頂いた。やはり人の声に乗ると命が吹き込まれる。

ゆめのたね放送局のサイトにて、8月20日と8月27日の朝8:30からの30分間の放送予定。

僕もラジオ番組は前々からパーソナリティをやってみたいと思っているので、とても刺激になった。皆様に心より感謝を。

これから「夢のタネ」放送局でラジオの収録。

久しぶりのラジオなので楽しみ。

2018.07.19

19世紀後半に開発されたプラスチック。その生産が本格化したのは1950年ごろからだ。これまでの累計生産量は83億トン。その内廃棄されたのは63億トン。その中でリサイクルされていないものは57億トンある。今世紀に入りプラスチックの生産量は飛躍的に伸びている。15年の生産量はこれまでの累計生産量のほぼ半分を占めるほどだ。

そのプラスチックが毎年海に流れ込む。その量は500万〜1300万トンに及ぶ量だ。それが700種を超える海洋生物に影響を与えている。そうしたプラスチックの破片は太陽の光にさらされ、波で打ち付けられて細かくなる。マイクロプラスチック、ナノプラスチックとなり生き物の身体に蓄積する。それは巡りめぐって我々の体内にやってくる。

問題は”見えない”ことだ。毎日捨てるプラスチックがどうなるのかまで我々のまなざしは届かない。そしてまなざしが向いていないところで確実に危機が進行する。それは我々だけでなく全ての生き物の命を危機に晒してしまうのだ。人間として本当に情けなく思う。もちろん自分もその当事者だ。しかしそんな辛い現実から目を背けて楽しいことにまなざしを奪われるのか。それとも未来に向けて、出来ることを一つ一つ実践するのか。我々の選択にかかっていることを肝に銘じたい。

(データ及び写真は「ナショナルジオグラフィック」より)

2018.07.18

聖地の風景調査を始めてから6年ほど。フィールドワークの際にフィールドノートをつけるのではなく、映像記録として残し始めたのが最初だ。それを「旅日誌:聖地のランドスケープデザイン」という表現として発信し始めてからは2年と少し経つ。もう3000本ほどの映像記録レポートのアーカイブが溜まってしまった。

最初は現地で見た風景とそこで得た情報と感覚を、忘れないように言葉にして、映像としてメモする程度だった。しかし聖地を巡る旅を続ける中で、その旅そのものこそが答えに近づく鍵となることに気づき始めている。

僕は幸いなことに、学問という客観的な方法だけでなく、芸術という主観的な表現方法を取る機会が与えられることも多い。その相反する両者の特性を自分の中で手放さずにいたことが、こうした表現を生んだと思う。

聖なるものを探し求める時に客観的な指標は役に立たない。主観的に自己の中に起こる感覚を繊細に感じとる。それをその場で言葉にしながら共有出来る形へと表現する。そうしたプロセスの中で浮かび上がるリアリティがあるように思える。

今回の月山でのフィールドワークは、これまでにも増して身の危険のある状況だった。2000m級の山なので、気を張らないと命が危ない。それと同時に、雲の中を歩く幻想的な風景に身を浸すことで自己の命を自然に預ける瞬間もある。

こうした旅を通じた身体の変容の中で顕現する聖なる感覚は、本人にしか知り得ないものかも知れない。だが映像記録に風景と僕自身の身心の変化が写り、それが語りを通じて見ている人にもリアリティとして共有出来る瞬間があるかもしれない。それがその人の何かを開くことをただ願って限定的にだが公開することにしている。

膨大な量のアーカイブになったので、リアルタイムで見ないとなかなか流れが分からないが、ご関心ある方は以下でグループへご参加下されば幸い。スペイン編は既に大部分が上がっているが、これからYoutubeにも順次上げていく予定。

「旅日誌:聖地のランドスケープデザイン」

日本編

https://www.facebook.com/groups/295859854082197/

インド編

スペイン編

https://www.facebook.com/groups/557894737693611/

オーストラリア編

https://www.facebook.com/groups/187511745002024/

2018.07.17

月山の9合目ぐらいで雲の中に突入する。

強風すぎるが濃霧が晴れない。

10メートル先までした視界が効かないが、一歩踏み外すと滑落する状況。

命の危機にさらされる時に、逆に生命力は立ち上がる。

その他の「聖地のランドスケープデザイン 日本編」をご覧になるには下記のグループページにご登録を。

https://www.facebook.com/groups/295859854082197/

2018.07.14

本日の社会人大学院の講義「地域デザイン論」での話題は2つ。MEDIAとMODERNIZATION について。

特にメディアの話題については拙著「まなざしのデザイン」の中では充分に書ききれなかったことを詳しく話す。

我々が普段触れている情報はほぼ全て何らかのメディアを介して得るものだ。しかしメディアの情報にずっと接していると、それが「メディア」であることにまなざしが向かずに、その「情報」にだけ目が行く。

MEDIAとはMEDIUM つまり「媒体、媒介するもの」の複数形だ。つまり情報と人の媒介をしているものだが、その役割が空気のように自明になると、その情報が誰かに”媒介されたもの”であることへ意識が向かなくなる。まなざしが固定化されて、メディアが透明化するのだ。

だからその情報が真実かどうかを確かめずに、鵜呑みにしてしまいがちだ。

今のような高度情報化社会ではそれが簡単に起きてしまう。だからメディアリテラシーを培う必要がある。色んなチカラが我々のまなざしを巧みにデザインして来ようとすることを知っておく必要性について、メディアの特性や発達史を交えて少し解説する。

後半の近代化の話は、近代合理主義というモノの見方のフォーマットの根底には主格二元論があるという話からスタート。そして万博と写真がどのようにモダンデザインを生んだのか、鉄道による交通革命がいかに近代観光を生んだのか、距離を超えてコミュニケーションしようとする通信革命によって何が起こったのかを技術史を交えながら解説。

この講義では人類が時代時代でどのようなまなざしを持ってきたのかを長尺の歴史で話をしているが、半分以上が近代以降の話。なぜならば、我々の今のまなざしはほぼこの150年間に培われたものをベースにしているからだ。

社会人大学院なので、若い学生とは違って社会の様々な力学が真実を歪めることについては多少意識しているかもしれない。しかし、自分はニュートラルに見えていると思っている人ほど、簡単に足元をすくわれる。経験に基づいてモノを見るクセがついていると、直感的が鈍るので違和感が見抜けない。そのあたりは拙著「まなざしのデザイン」の第3章のマジシャンの話にも書いた通りだ。全てに懐疑的になる必要はないが、自分のまなざしを過信することは戒めたい。

2018.07.13

本日のMCEIでの「まなざしのデザイン」のプレゼンテーションは100分ほどお時間頂いたので、これまでにないぐらい濃密にお話しした。

特に画面が4面あって舞台が広かったので、役者心がくすぐられる。会場の方にお願いしてリモコン操作でスライドを送るTEDスタイルに切り替えて、動きまくりながらプレゼンテーションする。

舞台センター位置で照明とプロジェクターの光、そして画像アニメーションと絡みながら身体の動きを交えて話を展開出来たので、今日の皆さんには少々演出の強度が上がった状態で、いつもより深く伝わった感じがある。

終了後に何とプレゼンテーションに対するMCEIからの感謝状まで頂くという光栄にも預かった。

持ってきた本もほとんど売り切れてしまうぐらい皆さん求めてくれたのと、後ほど質問にも皆さん押し寄せてくれて、交流会では何も食べれないほどだった。(これはいつものことだが…)。皆さんにはこうした場と機会を頂き本当に感謝しかない。

よくある質問に、どうやればプレゼンテーション上手くなりますかというのがあるのだが、プレゼンテーションの技術より大切な事があるといつも答えるようにしている。

それは”伝えたいことがあるか”どうかだ。特に若い人はプレゼンテーションが上手くなれば伝えたいことが出来ると思っているが、それは順序が逆だ。

どうしても伝えたいことがあるから、何とかそれを工夫して伝えようとする。その伝えたいことが抽象的で言葉に出来ないものほど、様々な方法を使って伝えようとする。その試行錯誤の繰り返ししかないのだ。

最初から技術があるわけでも手法を持っているわけでもない。そしてそんな技術は人から教わっても違う人間なので役に立たない。人間は教わったことよりも、自ら学んだことの方が身体に刻まれていくのだ。

僕が人より少し幸運だったと思うのは、芝居の経験を積んでいることだ。論理的思考の訓練をしていること、デザイン表現を身につけたことと合わさって、身体をメディア化する方法が刻み込まれていることがあるのかもしれない。

しかしそれは僕が獲得してきたものなので、経験の違う人に教えてもその通りには出来ない。

300枚を超えるスライドの順序と、その中のアニメーションを正確に記憶していて、なおかつそれに対応する台詞と動きが全て頭に入っていて、さらにそれらを的確に表現できる技術という条件が揃っていないと出来ないことだ。

とはいえそこで僕が培ったノウハウは確実にある。それはもしかしたらお伝えすることが出来るかも知れない。おそらくプレゼンテーション講座をしたり、そういうノウハウ本を書けば、今の本よりももっと評価されて、売れるヒット作になるのかも知れない。

そういうことはいつかはやってもいいのかも知れないが、今はそれよりも本質的なことを伝えたい。プレゼンテーションの技術よりも、それを伝える人間の思考力や心もちの方が重要だと思うからだ。伝える中身が思考の深められていないものだったり、人の自由を奪うようなものならば、プレゼンテーションの技術だけが向上することは、マイナスに働く。イデオロギーのプロパガンダや洗脳というのはそういう形で伝染することもあるのだ。そして伝わる能力だけ上がればその人の自我が拡大することを助長する。

自分のまなざしがちゃんと制御できていない段階で、「まなざしのデザイン」を単純にノウハウ化することは弊害でしかない。それは本を書く段階でもノウハウ本にはしたくないと何度も編集者と確認した。(その結果売れない本にはなったが…)

何よりすぐに身につけたノウハウはすぐに陳腐化する。表面的になぞって偽物のプレゼンテーションをするのではなく、どうせなら深められた思考をちゃんと伝える本物になって欲しいと思うから、そういうプレゼンテーションの技法に関して教えることは今のところ引き受けないようにしている。

一通り「まなざしのデザイン」の考えが広まり、共感した方々が次にそれをどう伝えていくのかという段階になれば考え始めてもいいかも知れない。

2018.07.12

これからMCEIというマーケッターの集まりで「まなざしのデザイン」のお話をさせて頂く。

2日前に高校の社会科の先生方にした同じ話をマーケッターの方々にも伝える。

僕はもう8年ほどこの”同じ話”をあらゆる領域の方々にお伝えしてきた。

皆さん最初は自分とは関係ない話だと思うかもしれない。しかし全てのことは私たちが何を見つめるのか、いかに見つめるのかというところは活動の違いゎ問わず共通している。だからどこでもこの「まなざしのデザイン」の話をするようにしている。

自分のまなざしに気づいていること。そしてそれが間違わないように、醜くならないよう「 にデザインしていくこと。その大切さは本にもそれは書いているが、それはなかなか伝わらない。意識せずに人は見たいように見ていて、自分の見ているものを都合よく歪めるからだ。

今日はマーケッターの方々。どうやってモノやサービスを売っていこうかと考えている方々だ。だからこそ、自分が何故それを売ろうとするのか、それを売ることは人の何を自由にするのかを考えてもらいたいと思っている。

与えられた時間は2時間ほど。毎回一期一会で二度と聞いてもらえるチャンスは無いと思っているから、今日も全力で精一杯伝えたい。

2018.07.11

地球規模でのデザインを考えると、どうしても経済の問題は外せないので、最近は再びマクロ経済ばかり勉強している。

日々の生活の中ではまるで見えない事が、少しまなざしのスケールを上げると急に見えてくるのだが、経済の問題は政治の問題とからんで実に巧妙に我々の視界には見えないように隠されている。だから表向きの筋書きだけでなく、裏の因果関係を丁寧に順を追って紐解いていかないと、その全容がまるで掴めない。

経済とは実態ではなく、そのほとんど全てが我々の想像力に依存している。ブランディングによって商品価値が変わることなどはその最たるものだが、20世紀のデザインは大いにそれに加担してきた。

だから21世紀のまなざしのデザインでは逆の方向に想像力を駆使して、その経済の本質を暴く必要がある。

ちなみにこの写真はヘルツォーク&ド・ムロンがデザインした建物。これが建っている都市が日本経済と大きく関係しているので、イメージ写真に選んでみた。

本日は「関西21世紀社会科の会」の講師として大阪学芸高校でお話した。

前半はいつもの「まなざしのデザイン」のお話をさせて頂き、後半はそのアプリケーションプログラムの一つである「データスケープ」のワークショップをする。

このワークショップは僕がまだ大阪大学コミュニケーションデザインセンターにいた頃から暖めてきたものだが、満を持して完結したワークショップとしてパッケージングした。

まなざしのデザインを実際にどう応用していくかのプログラムの一つで、今回は「情報の見方」をデザインする方法。他にも「空間の見方」や「人間の見方」のデザインなどもある。

今日のワークショップでは充分な時間が取れなかったが、それでも皆さん流石に社会科の先生たちなので、短時間で結構なクオリティをはじき出して来られた。

おそらくこのワークショップやった後だと、大阪と世界の見方が随分と変わるはずだ。是非高校の総合学習のプログラムに位置付けたい。

教育への応用だけでなく、今は新潟では行政職員の皆様と一緒にしているし、企業のポテンシャル把握やまちづくりなどにも応用できる。またSDGsへ具体的に地域がどう貢献できるのかをプランニングするにも使える。

こうした「まなざしのデザイン」の実践編を今色々と開発中で、高校生にも試してみたい。

創造的なモノの見方は誰にでも必要だが、大人になるほど頭が硬くなっていく。だから出来るだけ早いうちからこうした教育が必要だし、そのためにはそれを伝える大人の頭がまずは自由でないといけない。そんなこと考える良い機会となった。機会を与えてくれた皆さまに心より感謝。

2018.07.10

本日は「関西21世紀社会科の会」の講師として大阪学芸高校でお話した。

前半はいつもの「まなざしのデザイン」のお話をさせて頂き、後半はそのアプリケーションプログラムの一つである「データスケープ」のワークショップをする。

このワークショップは僕がまだ大阪大学コミュニケーションデザインセンターにいた頃から暖めてきたものだが、満を持して完結したワークショップとしてパッケージングした。

まなざしのデザインを実際にどう応用していくかのプログラムの一つで、今回は「情報の見方」をデザインする方法。他にも「空間の見方」や「人間の見方」のデザインなどもある。

今日のワークショップでは充分な時間が取れなかったが、それでも皆さん流石に社会科の先生たちなので、短時間で結構なクオリティをはじき出して来られた。

おそらくこのワークショップやった後だと、大阪と世界の見方が随分と変わるはずだ。是非高校の総合学習のプログラムに位置付けたい。

教育への応用だけでなく、今は新潟では行政職員の皆様と一緒にしているし、企業のポテンシャル把握やまちづくりなどにも応用できる。またSDGsへ具体的に地域がどう貢献できるのかをプランニングするにも使える。

こうした「まなざしのデザイン」の実践編を今色々と開発中で、高校生にも試してみたい。

創造的なモノの見方は誰にでも必要だが、大人になるほど頭が硬くなっていく。だから出来るだけ早いうちからこうした教育が必要だし、そのためにはそれを伝える大人の頭がまずは自由でないといけない。そんなこと考える良い機会となった。機会を与えてくれた皆さまに心より感謝。

2018.07.08

拙著「まなざしのデザイン」の目次です。本の目次には章までしかありませんが、節まで載せると内容が分かりやすいかと思い作成しました。

まだお読みになっていない方は目次をご覧になってピンと来れば是非。

最後までお読みになって共感して頂いた方は是非シェアやご紹介もお願い致しします。

 

https://www.flwmoon.net

 

2018.07.07

本日は大雨の中だが、観光・地域創造分野の博士後期課程の中間発表で論文指導にあたる。一年ぶりの指導なので、みなさんの進捗状況の確認から。思考が深まっている人もいれば、まだ充分ではない人、同じループから抜け出せない人まで様々。

しかし皆さん自分の課題と頑張って向き合っておられる姿勢は伝わる。だからそれに対して何とか応えようとすると厳しくなることもある。

しかし理解してもらえればいいなと期待するのは、その厳しさは排除ではなくより大きな包摂に向けられていることだ。

その人が成長と成熟するためには、必ずしも甘やかすことだけではないと思うからだ。

教育を受ける、訓練をする、学習をするというのはチャージすることだ。

いくら能力のある人でも充電出来ていない状態では放電出来ない。だから教育を受ける方はチャージのために来るのであり、僕ら教育に携わる方は、今まで培ってきた能力をそこでディスチャージしていることになる。

だから指導する方は、発表する人よりも集中してその問題を短時間に掴んで、それに対してレスポンスしてディスチャージしている。ディスチャージなのだから、それは本当にエネルギーを使うことは当然だ。でもそのディスチャージが相手のためならばこそだ。

能力主義の社会では、能力のない人は排除される。能力を証明した人だけにチャンスが与えられ、さらにその能力を高めていくというループだけでは排除されていく人が出てくる。

そうならないように受け止める教育や人のつながりが必要なのはいうまでもない。だが特に大学院のような高等教育というのはそういう場所ではない。既に人のために役立っている人の能力をちゃんと高めて社会により良くディスチャージ出来るように育てることがミッションだからだ。

チャージは自分のためにすることだが、ディスチャージは人のためにすることだ。しかしそこを取り違えると、自分を拡大するためにディスチャージすることになる。社会活動、地域活動する人の中には”人のため”と言いながら、無意識に自分のためにしていることを正当化して気づかない人もいる。自分はそうなっていないかと疑う気持ちがそこに無ければ真の学びはないし、必ず限界に突き当たるだろう。

高等教育とは、自分にはこんな想いがあるのにと、存在や思考を肯定・理解してもらうことでもない。論理的にモノを考える指導を受けるとは、自分が言いたいことを正当化するための理論武装をするためではない。むしろ自分の考えが至らないところや、無意識に陥っている思考を解体してもらって、より良きディスチャージが出来るように自分を磨く場なのだ。

本来はそれは誰にでも必要なことだから「まなざしのデザイン」を書いた部分もある。大学院という限られた場では限界があり、また自分の声が届く人には限りがあるからだ。

自分の考えは正しいのかという自分のまなざしに対する発見。そして、そのまなざしをより良い状態にして、1オクターブ上のディスチャージが出来るようになりたいという真摯な姿勢。そこから学習は始まるのだと思う。

2018.07.06

拙著「まなざしのデザイン」では、前半の方に街の見方についてのアプリケーションプログラムを書いている。まち歩きワークショップとかでも使える内容だ。こうした様々なモノの見方をデザインするためのメソッドを開発していると数が結構増えてきた。

来週に高校の社会科の先生達に向けて実施する「DATASCAPEワークショップ」は2005年から暖めてきたものをようやく外向きに公開する。

同じプログラムを新潟でも行政職員向けにしているが、まちづくりや企業分析、SDGsにも大いに使える内容としてパッケージ化した。

今は大学一年生にもこのプログラムを実施している。

それとは別だが、最近また新しいプログラムを二つ思いついた。今回はしないが、結構強烈な内容なので、相手を選んで慎重にする必要がある。

これは個人に働きかけるものなので、自分の人生へのまなざしが大きく変わるだろうな。いつかどこかで実験的に実施したい。

2018.07.05

先日にさる自治体にお話しを頂いてから、ずっと考えている「地域福祉」とは何なのかというのを深めたかったので、台風の中だが当大学の地域福祉がご専門の先生にお話を聞きに行った。

こちらからも「まなざしのデザイン」の話やこれまでの活動、そして新しく立ち上げようとしている研究拠点の話などを提供する。こちらの話には非常に共感してくれた。

世代の違いもあるし、分野の違いもあるけど、地域福祉の領域で何が問題になっているかという現状も自分なりに理解した。

一方で僕はそこで言われているスタンダードな課題とは全く違う課題があることをここでも確認した。その課題は無意識化していて、多くの人は見たくないので社会化するには世間の理解が追っつかない。まだ時期尚早だ。(まなざしのデザインも時期尚早かも知れないが…)

こうした他流試合ばかりしているので、異なるディシプリンに関して分析的に見るクセがすっかりついてしまっている。ついつい相手の中でデフォルトになっている無意識を見抜こうとするのだが、それを楽しんでくれる懐のある方にはこちらも本音で話せる。

2018.07.05

人が見ていようと見ていまいと

人から評価されようとされまいと

欲をちらつかせておびきよせなくても

不安をあおってふりむかせなくても

人間には自らの意志で

自らの考えと自らの行動を見つめ

美しくしていくことができるのだと

信じている

過去におかしたあやまちは

何も変えることはできないが

そこから何かを学ぶことは

できるはずだ

あやまちをあやまちとみとめず

次へすすんだならば

また同じあやまちを繰り返すだろう

まなざしを曇らせてはいけない

ほんとうに賢い人は

自分があやまちをおかすことに

ちゃんと気づいているので

そうならないようにデザインする

人がそのチカラを発揮するのは

自分のために動くときではなく

だれかのために動くときだ

そのときに人はもっとも美しくなる

そんな人がふえればいいなと

この本をしたためた

多くの人にとどけばと

心からねがっている

https://flwmoon.net

 

2018.07.03

拙著「まなざしのデザイン」は、一応僕の所属が経済学研究科なので、大学書店では経済・経営の棚に置いてもらえた。だが多くの本屋では芸術・文化の棚に置かれる。だからビジネスの方々の目に触れない。

しかし、この本の終章には空想と文明と情報資本主義についてのメッセージの多くが詰まっていて、ビジネスやイノベーションに携わる人にこそ読んで欲しいので、この本を書いた部分もある。見えないものを観るまなざしのチカラがいかに人間の本質なのかを書いたつもりだ。

1897年にトムソンが電子を発見し、20世紀の科学の99.9%は、この電子の恩恵に何らかの形で預かっている。この目に見えず写真にも撮れず、五感で感じることのできない電子という新しい現実を人間は五感ではない様々な計測器で観ることが出来るようになった。

その影響の元、この文明は100年間に異様なスピードで進んだ。19世紀以前の王族たちが送っていた暮らしを今では数多くの人々が手にするようになった。

1900年には16億人だった人口は2017年には70億人を超えている。1850年から2015年の165年間のアメリカの実質経済規模は250倍に膨らんでいる。1900年以前は非識字率が90%だったのが、今では識字率が90%に達しようとしている。

そういう意味で全体として文明が達成したことを全て否定するのは愚かなことだと思う。

こうした文明の発展の根底にあるのは、我々人間に備わる目に見えないものを観るチカラだ。今ここにないもの、かつてどこにもなかったものを観ようとするチカラ。目に見えない働きや法則を観ようとするチカラ。それが持つ威力は絶大だ。拙著「まなざしのデザイン」の終章では、それを「空想」と呼び、その空想の働かせ方について書いてきた本書全体の結論を書いている。

空想は人間の創造性の源泉だが、一方で空想とはとどまることを知らないので、使い方を間違えると大変なことになる。空想が自由さを失い何かに取り憑かれると、それは「妄想」に変わる。

今の資本主義文明の方向性は自由な空想が妄想になっていないか。常にそれをチェックしておく必要がある。そんな「空想文明論」を終章ではしたためた。

是非多くの人に拙著「まなざしのデザイン」の12章の”空想を働かせる”まで辿り着いて欲しい。

2018.07.02

僕の敬愛して止まないバックミンスター・フラーはこんな内容のことを言っている。

《人々にその習慣と考えを変えるように説得しようとせず、

誰かに言うことを聞くように要求したりせず、

他人が要求したときだけ情報を提供し、

ほかの誰もやろうとしないものだけに従事し、

望ましくない社会経済現象を攻撃したり反対することをせず、

生活費を稼ぐことに関心を持たずに、

個人が地球と全人類のことだけを考えて、

直感的な感性を最大限に信じて、

頻繁に自らの取り組みの姿勢を見つめて、

判断の間違いを迅速に認めて修正し、

包括的に熟考するのであれば、

生活に必要なものは「ただ偶然に」与えられ続ける。》

半端な合理主義の精神におかされた我々には到底出来そうもないように響く。

しかしフラー自身は自らのことを「あらゆる弱さともろさを備えた平均的な人間」であると認識していた。

人類の誰よりも科学的で合理主義だったフラーが、一見宗教的で非合理的とも思えるようなことに、合理的必然性を見出した。そのことに言いようもないリアリティを感じる。

自分も凡夫であることを言い訳にせず、少しでも近づきたいものだ。

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